バルトの最後の言葉」――「ただイエス・キリストのだけ

 

 1954年以来1964年まで続いた)、バルトは、「バーゼル刑務所での多くの場合聖餐式とともに行われた祈りにおける説教」で、次のように述べた――「人間はみんな、被告訴人なのです。しかしその裁判官の席にすわっているのは、和解者であるキリストです」、「クリスマスを祝うのには大聖堂がふさわしいのか、それともより高級な人たちによって祝われるエンゲルガッセ礼拝堂がふさわしいのか、私には分かりません。しかし私としては、……刑務所でこそ、ふさわしく祝うことができると確信しています」、と。このバルトは、『啓示・教会・神学』において、次のように述べている――「教会は、〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うことを聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する、〔したがって、そうでない時には、〕どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」。

 

 1956、「バルトが70歳になる年は、彼にとって重要な年となった」。何故ならば、「200年前の1756年にモーツァルトがザルツブルクで生まれた年であった」からであり、「その年のクララ・ハスキルがヘ長調のピアノ協奏曲を演奏した〔バーゼルの〕音楽ホールにおけるコンサートで、私はモーツァルト自身が突然舞台のそでに立っているのを幻のように見たのです。それはあまりにも現実味を帯びていたので、私は涙を流しそうになったほどです。(中略)いずれにしても今私は、モーツァルトが、その晩年にどのような姿をしていたかをはっきりと見たのです」という体験をしたからである。そして、「バルトは、私が、もしいつか天国に行くことになれば、そこでは誰よりも先ずモーツァルトを、それから次にアウグスティヌスとトマスを、そしてルターとカルヴァンとシュライエルマッハーを訪ねてみたいと思っています」と述べたという。このバルトは、「私は、特に芸術的才能に恵まれた人間でも、芸術的素養のある人間でもなく、その上、〔自らの立場――すなわち、「教義学的な合理主義を明確に否定し」、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としても神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学、「『<非>自然』な神学」に立脚する立場からして、救済史と芸術史を、〕救済史と芸術史のある部分を混同したり、同一視したりしようとは全く思わない〔ちょうど人間中主義的な、自由な自己意識・理性・思惟の類的機能(無限性)を持つ「自己への信頼としての自信自恃の哲学」を構成したヘーゲルの歴史哲学に依拠して神学的な<直線的>三段階的進歩史観を主張した「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語るモルトマンを全く首肯しないし、肯定しないように、それ故に「人間学の後追い知識」としての『神の存在 バルト神学研究』におけるヘーゲル主義的なエーバーハルト・ユンゲルの思惟と語りを全く首肯しないし、肯定しないように〕。しかし、モーツァルトの音楽の黄金の音色と調べは、……福音としてではないが、神の自由な恵みの福音によって啓示された神の国の比喩として……若い頃から私に語りかけてきたものであり、繰り返し素晴らしい新鮮さをもって語りかけて来た」と述べたという。また、「スイスのモーツァルト協会の委員であったバルトは、モーツァルト記念祭における講演『モーツァルトの自由』において、『彼は〔作曲家として、その自己表出と指示表出の構造としてある創造とその外化され表現された享受の対象としての〕音楽を演奏しつづけ〔換言すれば、<作曲>し自ら<演奏>しつづけ〕、〔作曲し自ら〕演奏し終わるということがなかった、人間の限界と死について、はっきりと知った時でも、〔作曲し自ら〕演奏することを止めなかった』」と述べたという。モーツァルトは、天才と言われながらも、また事実として実際的に天才でありながらも、書簡で、「自分みたいに作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人間は一人もいないし」、「有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究した」し、「作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味する」というように述べているという。われわれは、そのようなモーツアルトの在り方<と>「聖書へ絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、真の処女作『ローマ書』「第二版」以降レンガを積み上げるようして第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学(<教会>教義学、<福音主義的な>教義学)を構成して来たバルトとを重ね合わせることができる。

  バルトにとって神学全体のキリスト論的集中化の問題は、キリスト論的方向づけにあるのではなく、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエスキリストのが問題である、詳しく言えば「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)「聖性」・「秘義性」・「隠蔽性」において存在している(それ故に、ここにおいてわれわれは「神の不把握性」の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・「神性」・「永遠性」を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一形態の神の言葉」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(神の第二の存在の仕方における言葉の受肉、「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としてのイエスキリストの>」)――このイエスキリストご自身が問題である。「あらゆるキリスト論との取り組みは……結局のところ、イエスの山上の変貌の起こった高い山での弟子たちの場合と同じように、彼らが目をあげると、イエスのほかには誰も見えなかった(マタイ178すなわちイエスキリストご自身が問題である

 さて、バルトには、「登山は、……まったく喜びを与えなくなった」し、彼の「机に向かっての仕事のスピードは、目立って遅くなった」。「身体検査の結果は良好であったが、70歳となったバルト」は、生理的身体の老いの方からか、そのことによる多少の意欲の衰退の方からか、「老いを意識させられるようになった」。「肉体的な意味で、ただゆっくりとしか回復しない深い疲労を感じた。今や彼は、……自分の年齢を意識するようになった」。しかし、バルトにとって、「『教会教義学』を書きつづけ、完成するようにとの要求は、うなだれて手を休めてしまうことを許されなかった」。

 バルトは、「70歳の祝賀会において、祝意を表明した彼の学生たちに対して、有難いことだと思った」が、「しかし彼らが、自分たちはバルトの弟子だと考えないように警告しようとつとめた」。何故ならば、バルトは、「自分の生涯の成果を、一つの新しい学派〔党派、党派的思想、党派的共同性〕の形成に終わってしまうことを、決して願わなかった」からである。バルトは、時代と現実に強いられたところで、第二の形態の神の言葉である「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性(Ⅰコリント3章、エフェソ2・11-22)を目指して行くことを通して、レンガを積み上げるようにして積み上げてきた「自分の生涯の成果」を、「キリスト教に固有な」<類>として、彼以降の世代(すなわち、彼以降のバルト主義者や反バルト主義者や中立バルト主義者や折衷バルト主義者ではないところの、第三の形態の神の言葉である教会のすべての成員)に連続させ連関させて行くことが、教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学(神学者)の役割だと考えていたからである。バルトにとってはこの世には関心をもつべき名前はただひとつ存在するだけであるからであるそれはただイエスキリストのだけであるからであるしたがって、バルトは、次のように述べたという――「どうかあなた方は、私の名だけでなく、他のすべての名を持ち上げないでください〔包括的に言えば、「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語るようなことしないでください、ちょうど例えばWeb上でヘーゲルの歴史哲学に依拠して神学的な<直線的>三段階的進歩史観を主張したモルトマンに評価されることを評価の基準としていた牧師のように「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語るようなことしないでください〕」、換言すれば「あなた方は、私が語ることを通して〔バルト主義者や反バルト主義者や中立バルト主義者や折衷バルト主義者やではないところの、それ故に徹頭徹尾「教義学的な合理主義を明確に否定し」、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としても神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学、「『<非>自然』な神学」に立脚するバルト者として〕、あの方〔「ただイエスキリストのだけ」〕が語り給うことへと導かれる時にこそあなた方は私を正しく理解するのです」、「よい神学者は、〔類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟が対象化し客体化した人間自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、〕理念や原理や方法というような家には住みません」と述べた。

 1956年の誕生日、「バルトにとって、彼の『ローマ書』以来の神学的歩みを総括する機会となった」。それだからとって、バルトは彼の真の処女作である「『ローマ書』「第二版」の時の自分と1956年の時の自分は、『ある人が少し性急に主張したように、新しいバルトになったわけではなかった』」。そこには断続性(言語の指示表出性)と連続性(言語の自己表出性)の構造があった。「私の記憶によれば、私の神学の発展途上の段階で、次の段階へ向かう最も近い二、三歩の歩み以上の見通しや、計画をもったことはありませんでした。この最も近い数歩の歩みは、……〔時代と現実が強いてくる〕新しい状況に出会うごとに、いつも私に与えられる必然性と可能性をめぐって、私が画いている像からくる印象に基づいています。(中略)私がそれを捕えたと思う以上に、向こうから私を捕える新しいものの前に立たされたのです〔換言すれば、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(「啓示との<間接的>同一性」、啓示との区別を包括した同一性において存在しているその「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」、「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)である聖書「から私を捕える新しいものの前に立たされたのです」、それ故にバルトにおいては、例えば説教だけでなく政治的実践もという主義や主張によって意志的に政治的な場所に向かうのではなくて、換言すればわざわざ二元論的に分離し対立させて説教だけでなく政治的実践もと声高に叫ばなくても、「聖書への絶対的信頼」に基づいてかつて語った純粋な教えとしてのキリストの福音の「説教〔言葉〕の一貫した繰り返しが、〔時代と現実が強いて来る不可避的な〕(ある状況下において〔例えば、ある政治状況下において〕、その状況に抗するそれとして〔例えば、その政治的状況に抗するそれとして〕)おのずから〔、自然に、必然的に、〕実践に、決断に、行動になって行った」のである〕」。

 1956925、「アーラウで開催されたスイス牧師連合会で、バルトは『神の人間性』について講演した」。ブッシュは、「神の神性とは、『それ自身人間性の性格をもっている神性のこと』である」、「正しく理解された神の神性こそが、その人間性を包括するものである」と記述している。このことは、真の処女作『ローマ書』「第二版」以降一貫性をもって「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持し続けたバルト自身の『神の人間性』に即して言えば、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての「神の神性においてまた神の神性と共にただちにまた〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」ナザレのイエスという人間の歴史的形態としての「真に罪なき、従順なお方」「イエスキリストの>」において神の人間性もわれわれに出会うということでる。また、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」、<主格的>属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」(「イエス・キリスト信ずる信仰」)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものとしての「神の義〔恵み、生〕の啓示こそがパウロにとっては、……神の怒り〔裁き、死〕の啓示であるという影の側面を持っている」。死(裁き、律法)は復活(恵み、生)に包括されたそれとして、また復活は死を包括したそれとして、その全体性においてあるように、「神の啓示は裁き〔律法、死、闇〕であることによって恵み〔福音、生、光〕である」。したがって、ある教会の牧師が、Web上でバルトの「『神の人間性』に見る後期バルトの神観」について論じ、木を見て森を見ないという仕方で恵みの一面だけを形而上学的に抽象し固定化し全体化して、それ故に「抽象的ニ」、「バルトが語る<神の人間性>とは、たとえ人間が神を神とすることを止めて自らを神とし、神の敵として歩み始めたとしても、神は人間と関わりを持つことを決して拒まれないで、あくまでも苦難の中にうめいている人間と苦しみを共にすることを選ばれたということである」と述べた時、それは、全くの誤解・誤謬・曲解であり、それ故にそれは、その誤解・誤謬・曲解に「普遍性と組織性の後光をかぶせて語ろうとした」(吉本隆明『カール・マルクス』)ものでしかないのである。また、バルトは、同書で、はっきりと、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と、釘を刺す仕方で述べている。「神の神性についての命題」は、「あらゆる種類の、敬虔な、自由主義的な〔近代主義的な〕、『積極主義的な』、人間中心主義神学の遊戯に対して対抗できたし、またできる」。『教会教義学』において、バルトは、「近代主義的プロテスタント主義的神学が、キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない時、それは、視覚的錯覚による〔換言すれば、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍による〕」のであるが、その時には、「和解に関して言えば、『赦す神』が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が〔「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る〕思弁でしかない」ものとなるし、またその時には、「イエス・キリストは、下からの半神、超人、人間の最深の本質、最高の理想等の単なる空虚な概念でしかなくなってしまう」と述べている、ちょうど例えば八木誠一によって<学業的>知識の領域において恣意的独断的に神性を剥奪されたイエスは、「人間存在の根底を語り続けたただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」人に過ぎなくなってしまうように(八木誠一『イエス』)。「まさにキリストの神性についての教義こそが、〔「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語るところの、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆、神の自由を認識していないという事態にある」「ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する」(『ヘーゲル』)〕「すべての近代主義的プロテスタント主義的神学〔自由主義的プロテスタント主義的神学、それに属する筆頭格のシュライエルマッハーや彼以外の他の多くの人々〕に抗することができる〔神学における思想的〕武器である」。最後に、バルトが時代と現実に強いられたところで論じられた彼の『神の人間性』に関して注意すべき点は、「第二の方向転換としての<神の人間性>の主文章化〔換言すれば、『神の人間性』〕」は、「第一の方向転換の<神の神性>の主文章化〔換言すれば、『ローマ書』「第二版」「第二版序言」〕」と対立関係にあるのではなく、その主文章化と副文章化とのベクトル変容は、あくまでも時代と現実から強いられたそれなのである――この<全体性>において、「一方が中心部から周辺へ、強調された主文章からさほど強調されない副文章へと退いたりするだけなのである」。すなわち、その思惟と語りは、時代と現実に強いられたところでの断続性(言語の指示表出性)と連続性(言語の自己表出性)の構造を持っているのである。したがって、二元論的に分離し対立させた「前期バルト」と「後期バルト」の分け方は、その最初から間違ったものなのである。したがってまた、その分け方は、「誤謬に普遍性と組織性の後光をかぶせて語られた」ものに過ぎない。さて、前段で述べたことについて、ブッシュは、「一人の証人という姿において、啓示と和解に『協力しつつ』参与することである」と述べている。これだけでは何も言わないのと同じである。何故ならば、主観的にそのように口述し記述したとしても、先行する「神の側からの用意の中に含まれつつ、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的な〕<人間>の側で出会うことに関しては、われわれは、必然的にただ『不服従の中に』(ローマ一一・三二)閉じ込められているというあの閉鎖性のことを考えることができるだけである……」からである(『教会教義学 神論』)。したがって、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性へと向かうべき第三の形態の神の言葉である教会(すべての成員)の宣教の問題を明確に提起しなければならない。ブッシュの記述によれば、「バルトは、礼典について、『第一の<司式者>はイエス・キリスト自身であり』、そして第二の司式者は……牧師ではなく『会衆全体』である、またサクラメントに関しては、『ただひとつのサクラメントが存在するだけであり、それは死人から復活された方自身である』」と述べたという。

 因みに、バルトは、次のように述べている――イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っているのであるから、「それ自身が語るものとして、洗礼は、一回的な繰り返すことができない出来事である」、また「そういうものとして、それ自身が語るものとして、聖餐は、繰り返し行われる出来事である」、それ故に「説教も、そういうものとして、それ自身が語ることを、〔聴衆に、全世界としての教会自身と世のすべての人々に〕語るべきである」。サクラメント(聖礼典)の「聴者」(「聴従者」)は、すなわち「次のような二重の自己認識・自己理解・自己規定、二重の生活が授与された者」は、「光、キリストの中にある恵まれた・義とされた盲人、罪人の交わりとしての教会である」、また「われわれ人間の感覚と理解の世界が、神を見る目、神に聞く耳となるということ」は、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」――すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」・「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて、終末論的限界の下で、信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事が贈り与えられるということである、換言すればキリストにあっての神としての「神が神であることをやめることなく、しかも私が失われた盲人であることをやめることなく、そのような神との交わりを基礎づけるような一つの出来事が、この私の世界の中に起こった」ということである。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている起源的な第一の形態の「神の言葉の啓示は神の設定〔「最初の起源的な支配的な<しるし>」の設定〕を意味する」。言い換えれば、それは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>――詳しく言えば、客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性の設定を意味する。

サクラメント――この言葉は秘義と名づけられていて」、一般的真理ではなく、「恵みの真理それ自身から語りかけてくる啓示の真理である〔イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」を持っている、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」という<総体的構造>を持っている〕」。唯一無比なキリスト教の秘義であるサクラメントはイエスキリストにおける御言葉の受肉である〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位一体の神」のその内在的本質である<神性>の受肉ではなく、「われわれのための神」としてのその第二の存在の仕方における<言葉>の受肉である〕」。客観的なその「死と復活の出来事」<全体>における「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)――この「イエス・キリストの啓示の出来事」からして、木を見て森を見ないという仕方で形而上学的にその一面だけを抽象し固定化し全体化する「十字架ノ神学者や栄光ノ神学者という在り方」は、その最初から「誤謬は必然である」。何故ならば、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」からである、すなわち「旧約〔「神の裁きの啓示」・律法〕から新約〔「神の恵みの啓示」・福音〕へのキリストの十字架〔復活に包括された十字架・死〕でもって終わる古い世〔・古い時間〕は、復活へと向かっている」からである、この「キリストの復活」(「キリスト復活四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「われわれの時間の中で、実在の成就された時間」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」)は、「新しい世〔・新しい時間〕のはじまりである」からである(『教会教義学 神の言葉』)。前者の神学者は、「サクラメントの自然的な面」、すなわち「感覚的、可視的な対象、キリストの十字架を想起させる物質的<徴>を重視する」。また、後者の神学者は、「私たちのまわりにあるすべての見えるもの」、すなわち「感覚的、可視的な対象、造られた自然の無限の世界〔全自然〕を、見えない神の見える<徴>そのものであると理解する信仰的現実主義、汎サクラメンタリズムに立脚しており、サクラメントを、物質面に向かって世俗化してしまう」。

「洗礼の水に沈められることは、私たちがキリストと共に死に、甦ることの<徴>となり、聖餐のパンと葡萄酒を食らい、飲むことは、キリストの献身と御父への昇天によって私たちを支える<徴>となる。それは自然〔感覚的、可視的な対象としての水、パン、葡萄酒〕における神の言葉であって、それ以外の何物でもない〔それ故にそれは神の言葉そのものではない〕」。「サクラメントの唯一性は、〔「自己自身である神」としての〕三位一体の神の唯一性に対応し、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方における〕御言葉の受肉〔客観的な「存在的な<必然性>」〕、御霊の注ぎ〔主観的な「認識的な<必然性>」〕の唯一性に対応する」。「サクラメントは、<徴>であり、さらにそれ以上に有効な力である」。「洗礼は水〔客観的な対象物としての天然自然水あるいは人間によって加工された人間的自然としての飲料〕の注ぎよって人間がキリストと共に死に、甦ることを意味する象徴能力、<徴>であり、聖餐式はパンと葡萄酒〔ブドウを人間が加工した物資的生産物としての葡萄酒〕によってキリストの義と聖にあずかることを意味する象徴能力、<徴>である」。したがってこの「<>、象徴能力そのものは決して神の力そのものではない、ちょうど第三の形態の神の言葉である教会の宣教(説教と聖礼典)における説教の言葉が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」ことからして、それは、神の言葉そのものではないように。したがって、「<徴>、象徴能力」という媒介概念なしに直接的に、例えばアウグスティヌスのように「『自然』神学」の<段階>における「存在の類比」に依拠して、「存在するものそのもの、その純然たる造られた存在に依拠して、造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」と「被造物的現実に神の真理の対応を認めるならば」、「神礼拝〔「教義学的な合理主義を明確に否定し」、キリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学、「『<非>自然』な神学」に立脚した神崇拝〕と共に偶像礼拝〔一般的啓示、一般的真理、存在の類比、「『自然』神学」に立脚した偶像崇拝〕を招くのである」。したがって、「あらゆる種類の祭儀的食事〔大嘗祭も、神と天皇(人間)との共食祭儀である〕は、……〔「他宗教の中にもある」〕宗教現象の世界で常に在庫品である」という意味ではキリスト教のそれも相対的な位置を占めているという歴史主義的な「キリスト教的サクラメントの宗教史的起源を問う問い」に対して、その「<徴>、象徴能力の概念」は、根本的な包括的な原理的な「答え〔止揚、克服、解決〕」となるものである

 「<徴>、象徴能力そのものは、決して神の力そのものでない」とすれば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教における説教の言葉が、第二の形態の神の言葉である聖書を「聖書への絶対的信頼」に基づいて自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、起源的な第一の形態の神の言葉である「キリストへ服従して語られることによって、神の言葉となるように」、「洗礼式や聖餐式のそれ〔「自然的出来事」、「物質的出来事」〕がキリストへの服従によってなされる時」、「また神ノ制定ニヨリ、その設定の力によって、神の言葉と命令によってなされる時」、「神の言葉の<徴>、象徴能力となる」

そのような訳で、サクラメントは見える言葉ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのイエスキリストの>」、「啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神言葉〕、サクラメントであるイエスキリストは〔「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、顕現性と隠蔽性の全体性におけるサクラメントであるイエス・キリストは〕」、受肉された言葉として〔その内在的本質である<神性>の受肉ではなく、その第二の存在の仕方における<言葉>の受肉としての受肉された言葉として〕、説教の言葉〔「徴」〕とサクラメント〔「徴」としての洗礼と聖餐〕との両方の原型である」。第二の形態の神の言葉である弟子たちにただ説教だけでなく洗礼を命じ給うたキリストそれ故にサクラメントを制定されたキリスト、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちのイエスキリストについての言葉証言宣教説教」(聖書の中で証しされているキリストである。「自然的物質的出来事であるサクラメントが力あるとされるのは」、「聖書の朗読によるのではなく」、「先ず第一義的に優位に立つ原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準〕としてのイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理〔規準・法廷・審判者・支配者・標準〕である」「聖別された言葉である聖書の証言証しを責任をもって受け入れ宣べ伝える教会の宣教におけるそのサクラメントに、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕福音ノ生ケル御声が伴うところにある」のであって、その時にはその「サクラメントは、単なる教会式典とは異なる、聖別された、力あるサクラメント、力ある<徴>となるのである」したがって、このことは、「御言葉に奉仕する者の信仰と服従がサクラメントの効力を生み出すわけではないこと、また不信仰と不服従がそれを破壊するわけでもないことを意味する」何故ならば神の力は神の自由な賜物であるからである。したがって、「説教においては、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、〕聖霊が語り、聖霊が聞くのであり」、「サクラメントにおいても、聖霊が与え、聖霊が受けられるのである。聖霊こそが、その執行と受領において、その実現を効力あらしめるのである。ここに真のサクラメントがある」。そして、その「聖霊の証言は、個々人を信仰と服従へと呼びさますと共に、さらに〔裁きの座に〕人を置くこともでき、人を頑にすることもできるのである」。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」、それ故にそれは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(すなわち、「祈りの態度」)に対し神が応じて下さる(すなわち、「祈りの聞き届け」)ということに基づいて成立している」、と。

カルヴァンは、「永遠のまことの神性」を内在的本質とするキリストは、われわれ人間が人間的に所有するわれわれ人間の信仰の中に解消されてしまうことはあり得ないと考えた。したがって、われわれ人間は、「信ずる者として、愛する主よ、われ信ず、信仰なきわれを助け給えと叫ばなければならないことを、よく知っていた」。すなわち、「キリスト教信仰は一つの純粋な受領であって決して所有ではない以上、〔第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として〕神の声を聞くことであって、〔「『自然』神学」の<段階>で停滞した、生来的な自然的な類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された人間自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」としての〕自分自身の声を聞くことではない」。ルターの礼典論は、「結果において、次の点でカトリックの教理と同じになっている」。すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を一貫性をもって堅持しなかったルターにとって(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)、「聖餐の中の『約束ノ徴』は、『パント葡萄酒ノ中ノ』キリストご自身である。洗礼の水は、『恵みに満ちた水』であり、『神の水』であり、『神の天的な、聖なる祝福された水』なのである。そこで『信仰は水によっている』」。それに対して、バルトは、次のように述べている――「私たちは、<の力の源泉を、<自体、<そのものの中に移すことをしない。(中略)信仰自体の中にあるのでもない」、「聖礼典の恵みは信仰自体にも、<自体にも帰せられない」、「カルヴァンにとっては聖礼典の恵みの源は信仰自体にも、しるし自体にもなく神御自身恵みの自由自由な恵みの賜物にある」、「その神の恵みの賜物が<徴>に授与され、信仰に授与される」、「ここに礼典論についてのよりよい全教会的解決がある」、と。

キリストのサクラメンタルな現臨とは象徴的現臨のことである」、「それは真理の一つの形式、<の形式である、それ故に「この形式を根本的に拒否しようとする者は、サクラメントと共に、説教も否認し、強いては、啓示の概念全般を否定せざるをえないであろう」。キリストのサクラメンタルな現臨とは聖霊の現臨にほかならない。「それは、あらゆる物理的、心理的現臨とは違って、神から来る自由な恵みの現臨である。すなわち、「その真理と象徴」との架橋は、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「聖霊の注ぎ」によるのである、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「啓示の出来事」<と>そのなかでの主観的側面としての主観的な「信仰の出来事」によるのである。神のその都度の自由な恵みの神的決断による「聖霊の注ぎにおいて、水でもってするごとく、同時に聖霊によって洗礼され、パンと葡萄酒で養われるごとく、同時にキリストの肉と血によって養われることが起こるのである」。

 

 1957年から58年にかけての冬学期の演習で、バルトは、「近代のルター主義(「ヴェルナー・エラートの教義学」)と取り組んだが、それには、一方に陰鬱な歴史的運命論が、他方には……強引な教派主義が貫かれており、それ故にその教義学においては聖書の使信の中心点を、まさにはるか遠くからやっと見つけ出せるといった体系的構築がなされており、その学派の著作に驚き……立ちすくんでしまった」。それだけでなく、それは、自然時空へと死語化していく以外にはない水準の著作として、「あまりにも非生産的なものとして」、それ故に「次の学期の演習の対象としようとは思わなかった」。

 

 1958、バルトは、時代と現実の側から強いられて<不可避的に>「核武装の問題に取り組むように定められた」。バルトは、「東の人間も西の人間も、この問題の中で動き始めた狂気に反対して、立ち上がるべきである。……これは、生命の危機の問題である」と述べた。また、バルトは、「世界の強国に、必要な場合には核兵器の一方的廃棄に踏み切るよう要請した」。ただ核兵器は、軍事的には最後的な戦略兵器であるから、「もしもそれを実際的に使用したとすれば、その最初の瞬間からすべてが終わりとなり、それ故に戦争遂行それ自身が不可能となる」(したがって、例えば、アメリカは、イラク戦争の時、戦術兵器としての<劣化>ウラン弾をイラク民衆の生活圏に撃ち込んだ)――このように、バルトは認識していた。バルトの「核武装の拒否」は、第一に、「核戦争はすべての人間の絶滅をもたらすものである」からであり、第二に、それは、「すべての国家とすべての国民のためになる」からである。当然、このバルトは、「スイスの核武装にも反対した」。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている純粋な教えとしての「キリストの福音」は、「『現在の冷戦において互いに対立し、相争っているイデオロギーと利害と権力を越えた』雲の上、すなわち<彼岸・外>にある」と思惟し語った。したがって、バルトは、「神学的思考と社会的政治的思考との、あらゆる同一化の試みと、また両者のあらゆる並行化と類比化の試みに対して……もっとも激しいアレルギー拒絶反応を示した」。何故ならば、「その場合には、類比の主体〔純粋な教えとしてのキリストの福音〕がもっている類比の客体〔例えば、神学者や牧師や聖職者の政治的洞察や見解〕に対する優位が、明白に逆転不可能な形で確保され・見えつづけるということがなくなってしまう」からである。このことは、バルトにおいては、「社会的・政治的無関心を容認することではなく、むしろ決断による『態度決定』を意味していた」、ちょうどこの論稿の1956年の誕生日ところで述べたように。「東独問題と核問題に対する姿勢のために、さまざまな反対意見や無理解に直面して、〔反体制派の〕『非国教徒輩』と見られていると感じた孤立の中で、バルトは、倦み疲れてはならない、さらに前進を! と自分に言い聞かせた」。

 1958年の夏、バルトは、「彼の視点から、哲学者と神学者の間にある対立と協力関係について論文を書いている」。「両者は共に『唯一の……真理の全体』に直面しており、しかもその真理は〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の真理は〕、両者を凌駕しているので、両者は共に『天上の高みから下に向かって』語ることはできないという前提に基づいて、バルトは、神学者は『その素朴さを恥じることなく、彼の思考と言説の道が、それを通ることによって哲学者の道はそこでは完全に断ち切られるほど厳格な形で、神学者に提示される唯一の真理の全体とはイエスキリストのことである……と、直接、無条件に答える』」と述べた。このことは、明らかに、『ローマ書』「第2版序言」にある「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の言い換えである。それにも拘らず、ブッシュは、「このテーマは、それまでバルトが直接とり上げたことがない」それであると述べているのであるが、それは全く違うので、バルトの真の処女作『ローマ書』「第二版序言」から一貫性をもって堅持されているそれなのである。ブッシュ自身、『カール・バルトの生涯』で、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を共有したバルトとヤスパースとの関係を記述していながら、すなわち自立的に「哲学者は哲学者として、また神学者は神学者として、考え、語り、書くということにおいて協力関係は成立する」と記述しながら、ブッシュは、そのことを全く忘れ去ってしまっているのである。このようなブレたブッシュの記述は、所々で散見できる。バルトは、『教会教義学 神の言葉』において、次のように述べている――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった。神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった。またその時には、哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる。キリスト教哲学は、それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった。また、それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」、と。また、バルトが、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、すなわち神学も哲学と同様に類的機能を持つ自由な人間の自己意識・理性・思惟を駆使しての知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」と自覚的に述べている(『バルトとの対話』)。

 バルトは、「パウル・ティリッヒが訪れた時、彼は人間的には魅力のある人物だと思ったが、その神学の内容は〔すなわち、「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語るその神学の内容は〕、……〔「『<非>自然』な神学」の<段階>で思惟し語る私とは〕まったく異なったものです」と述べている。吉永正義は、『バルト神学とその特質』において、「ブルンナーの神学、ブルトマンの神学、ティリッヒの神学、ポスト・ブルトマニヤンの神学を総括する意味で、バルトは『ブルトマンも説教するが、〔「人間学の後追い知識」としての前期ハイデッガーの哲学原理に依拠した〕ブルトマンの説教は説教にならないで講演〔すなわち、自己表現としての説教〕になってしまう』というが、これは……核心をついたブルトマンに対する批判というべきではないだろうか」と述べている。

 生理的身体の方からやってくる老いに対して「バルトは、以前より多くの休暇を取り、その休暇中にも、……ただ休養するだけのより長い息抜きの時間を必要とした。また、学期の仕事遂行のために、パイプのタバコをふかし、窓を開け放って寝ることや朝の冷水シャワーは規則正しく熱心に実行し、夜の深呼吸と、朝の体操も行った。それだけでなく、いろいろな種類のビタミン剤等もとった」。そうした中で、「多くの愛すべき、面白い訪問者たち、しかしまた同じくらい多くの時間食い以外の何ものでもないような訪問者たちの来訪を受けなければならなかった」。

 

 1959年から60年にかけての冬学期と、1960年の夏学期に、「バルトは、カルヴァンの演習を行った」。「バルトは、『キリスト教綱要』の新しい版の序文に、カルヴァンはルターと違って天才ではなかった。むしろ良心的な聖書釈義家であり、厳密で堅実な思想家であり、同時にキリスト教的、教会生活の実践に倦むことなく……努力する神学者であった。彼は……自分の研究結果を受け入れるように強制することなく、むしろ自分の研究を取り上げて、自分の足跡をたどりながら、新しい結果〔成果〕に向かって進んでいくことを求めた」。バルトは、Ⅰコリント3章からして、「カルヴァンの弟子であろうとは思わなかった。またさらに、彼自身も、……自分の学生たちにとっての教師となろうとは思わなかった」。バルトにとっては、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「ただイエスキリストの名だけが問題であった」。

 

 1960、バルトは「彼自身が臨時の拘置所付牧師、教誨師として、繰り返して直接直面した刑務所と拘置所の機構の問題について、基本的な解明を行った」。「犯罪者になる神の予定というものが存在するかという質問」に対して、バルトは、次のように答えている――「犯罪者への病的素質といったものは存在するが、悪への神の予定などというものは存在しない」、何故ならば「存在するのは、道を見失ったすべての人間を『救済するという神の予定(すなわち神の恵み)』だけである」からである、また「『健康な人たち』も、良くない(「危険が少ないとは言えない」)素質を負っています」、と。事実として実際的に、大学社会の学者であれ、知識人であれ、著述家であれ、宗教家であれ、慈善家であれ、道徳家であれ、医療関係者であれ、法律関係者であれ、教育関係者であれ、国民全体の奉仕者あるいは住民全体の奉仕者である公務の関係者であれ、善人であれ、誰であれ、現実的な戦争とか愛憎問題とか利害対立とかの<不可避的な>契機(機縁)さえあれば、悪をなし得るし、傷害を犯し得るし、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人を殺し得るし、ましてや<現実的な>衣食住の日常性を第一義(価値)としないところで、非日常的な豊かな<イメージ>価値を消費するところの、正常と異常との境界を行き来する<精神の病>を生み落した高度消費資本主義<段階>における社会の中ではなおさらそうである(因みに、産業資本主義の段階における社会においては<身体的な>肺病が主であった。高度消費資本主義段階におけるその寵児の作家中村うさぎ「朝日新聞」夕刊、2006922日の記事で、次のように述べていた――「一九九二年新宿伊勢丹の〔イメージ価値としての〕シャネルで衝動買いしたときから、眠っていた欲望が暴走し始めた。その後、六〇万円の革のコートを購入するのだが、その代金をカードで支払った時、すさまじい快感に襲われた。以来、〔イメージ価値としての〕海外ブランド物を買いあさる。一度に買い込む金額は、一〇〇万円、二〇〇万円とエスカレートしていき、印税が底をつき、カードが使用停止になった。〔日常的な衣食住の生活に必要な〕自宅の水道やガス、電話が料金未納で止められたこともあった。〔イメージ価値を消費する〕買物依存症がおさまったとき、今度は〔自己身体をも消費の対象としてイメージ価値を求め〕美容整形に走り、現在顔で原型をとどめているのは口と鼻先の二カ所だけとなった。以前なら年をとれば容貌が劣化し、静にあきらめていけた。現代人はあきらめられない地獄に突き落とされている私は〔高度消費資本主義<段階>における〕消費社会の漂泊者でいたい」。この事態は、吉本隆明の『マス・イメージ論』によれば、日常的な衣食住の生活的必要に依拠しない消費行動にあり、高度消費資本主義<段階>における「高度な資本システム的必然がもたらすシステム的価値無意識的世界、共同的無意識、共同幻想が人を動かしている」事態である。このことからして、「そうやってしか存在できなくなった」中村の行動は、中村自身の「自分の意志によるのではなく、システムの意志によっている」ということができる。この「システム的な文化は、実体から遠く隔てられ、判断の表象を喪失している」から、その喪失の度合に応じて「白けはてた空虚にぶつかる度合が決定され、生活的実感を希薄化させる」)――このような還相的観点において、自己欺瞞に満ちた往相的観点、市民的観点(市民的常識)から超出しなければならない、自己欺瞞に満ちた往相的観点、市民的観点(市民的常識)から対象的になって距離を取っていなければならない。

1960、「バーゼル大学は創立500年の記念祭の祝賀会を行ったが、その時鉄のカーテンの向こう側の諸国からのあらゆる客を排除しようとした多数派の〔哲学者〕ヤスパース……と、意見が対立し、バルトは西側の招かれる資格のある客と東側の資格のない客とに分けることに抗議する文章を書いた」。

 ブッシュは、バルトが和解論における特殊倫理学を論じるはずであった『教会教義学Ⅳ/4断片 キリスト教的生の基礎づけ』(邦訳「キリスト教的生<断片>」)について(詳しく言えば、「特殊倫理学」――すなわち、「特別的な神学的倫理学」は、区別を包括した単一性において、<教会>「教義学」に包括されたそれであることからして、バルトが和解論における特殊倫理学を論じるはずであった『教会教義学Ⅳ/4断片 キリスト教的生の基礎づけ』について)、次のように記述している――第一に、「本来バルトが目論んだ配列を、しばらくの間放棄して、彼は、主の祈りを手引きとして、キリスト教生活のさまざまな実践上の諸側面を論じたいと考えた」、第二に、しかし「これらすべてに先立って、キリスト教的生活の基礎づけの論述として洗礼論が展開されることになっていた」、第三に、「洗礼論は、神御自身の業としての聖霊による洗礼と礼拝における人間の業としての水による洗礼との全体性において論じられることになっていた」、第四に、「聖餐論が、締めくくりとして、また仕上げとして、キリスト教的生活の革新と保持との論述として取り扱われることになっていた。この場合、バルトは、聖餐を、神御自身によって、神のみによってもたらされた、……『革新と保持』に直面する教会の服従の行為として、……理解しようとした。すなわち、聖餐を、その自己犠牲におけるイエス・キリストの現臨に応答し、彼の将来〔復活されたキリストの再臨、終末、「完成」〕を待ち望む感謝の表明として理解しようとした」、第五に、「洗礼論においても、1943年の洗礼論の場合と同じように、再び乳幼児洗礼は決定的に拒否された」、第六に、「バルトは、イエス・キリストの復活と聖霊の注入だけを、聖礼典と呼びたいと考えた。このような聖礼典がキリスト教的生活を基礎づけるという限りにおいて、彼は『聖霊による洗礼』について論じたいと思った」。バルトによれば、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>からして、「聖霊による洗礼は、純粋に人間の行為としての水による洗礼と厳密に区別されなければならないと考えた」。「純粋に人間の行為としての水による洗礼は、イエス自身が受けた洗礼にその根拠を持っている。また、この水による洗礼は、聖霊による洗礼の側から授与される」、第七に、「主の祈りのアバ、父よという呼びかけは、キリスト教的エートスの根本的行為である」。因みに『教会教義学 神の言葉』によれば、イエス・キリストが「聖霊の特別な働きとして約束したものは、慰め主としての霊と真理の御霊であるが、聖霊は、聖書の中のキリスト教原理を、覆いをとって明らかにする、キリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)であり、上からのよき賜物であり、聖霊はみ子の霊であり、それ故に子たる身分を授ける霊であり、聖霊を受けることによって、イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として、われわれは神の子供、世つぎ、神の家族であり、『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができるのであり、また和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示の受領者たちは、神の子供なのである」、第八に、バルトは、「御名をあがめさせ給え、すなわち神の栄光のための熱心について、神の隠蔽性と顕現性において展開した」。ブッシュは、一方で、「バルトが神の国は人間によって実現されることも、準備されることもあり得ず、この世界に対してだけでなく、キリスト教世界に対しても『全く独自ナ要因』であるということを、……強調した」と記述している。それにも拘らず、ブッシュは、他方で、バルトが「『自然神学』に対する徹底した批判の後に……神は『世界』にとっても……主観的にではないが、しかし客観的には知られていると語ったことは、……注目すべきことである」と記述し、ここでもいかにもバルトが「『自然』神学」を容認したかのように受け取ることができるような曖昧な記述をしている。「『自然』神学」の<段階>の問題を明確に提起することによって、真の処女作『ローマ書』「第二版」以降一貫性をもって最後の最後まで「教義学的な合理主義を明確に否定し」、キリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学、「『<非>自然』な神学」の立場を堅持し続けた、それ故に一貫性をもって最後の最後まで『自然』神学」の<段階>から対象的になって距離を取ることを堅持し続けた神学における<思想家>バルトにおいては、ただ単なる著述家としてのブッシュの記述のような曖昧性は存在しない、ブッシュのような曖昧性が存在することはあり得ない。因みに、バルトは、邦訳『カール・バルト 和解論Ⅳ キリスト教的生断片』「はしがき」で、次のように述べている――「聖晩餐(〔先行する〕その自己犠牲におけるイエス・キリストの現在に答え彼の将来を待ち望みつつなされる感謝としての聖晩餐)」、「〔先行する〕神の和解の業に対応する自主的性格を持つキリスト者の(人間的!)業」――この思惟と語りは、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということを前提とした思惟と語りである、すなわち全く以て「『<非>自然』な神学」の<段階>における思惟と語りである。「和解論を締めくくるキリスト教倫理の冒頭に述べられた洗礼」、「今日では、非常に好んで、そして非常にしばしば(あまりにも好んで、そしてあまりにもしばしば)、神に対して成人になったと称する世について、語られている。……そのような世よりも私にとって興味があるのは、神と世に対して成人になるべき人間である。成人のキリスト者と成人のキリスト者の群れである。〔先行する〕神に対して活きた希望を懐き、世において奉仕し、自由な信仰をし、絶えず祈る、彼らの思惟、言説、行動である。そして、私の考えでは、霊と火による洗礼において起こるのは、そのようなキリスト者また教会として責任を負うことの解放の開始であり、水による洗礼において起こるのは、そのような責任遂行へとキリスト者また教団が歩き始めることである」、これらのことから「嬰児洗礼の風習ないし悪習に対する……反対という結果が生じてくる」、しかしこの問題のある「嬰児洗礼〔この「風習ないし悪習は、新約聖書によっては基礎づけられず、ようやく三世紀以降に認められるものである」〕に関する問いは、特に、古い神学的自由主義の代表者たちに対しても、その〔その人間学について吟味もしないで、その人間学に依拠して、その「人間学の後追い知識」としての〕『歴史的・批判的』方法の新発見を大声で自慢している最新の神学的自由主義の代表者たちに対しても、向けられている」にも拘わらず、神学における自由主義者、近代主義者である「彼らにおいては、神とその現実存在の三一性に至るまで、すべてのものが、そこでは『非神話化』され得るのに、この問題に関しては、彼らを森の中の最も深い沈黙のようなものが支配している」、彼らはこの問題に関しては「『歴史的・批判的』方法」で扱おうとはしない。人間学の方からは、言葉の専門家の吉本隆明が、次のような指摘を行っている――「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(『敗北の構造』「南島論」)。バルトが逝去する前の年、1967年の邦訳『カール・バルト 和解論Ⅳ キリスト教的生断片』「はしがき」におけるバルトの思惟と語りを聞くだけでも、バルトが、自由主義神学(自由神学)、近代主義神学(近代神学)に「回帰」・復古・逆行・退行していないことは確実で自明なことである。「私は、この嬰児洗礼の問題においてある種の突破が起こることによる全面的な恢復を、教会に期待してはいない。しかし、教会がすべてのより良い知識や良心に反対して、千何百年来そうして来たように、かたくなに洗礼の水をあのように恐れげもなく乱費することを続ける限り〔換言すれば、「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語り続ける限り〕、教会がどうして、今日いろいろな方面から言われているように……その本質にふさわしく伝道的教会(したがって成人せぬ教会ではなく成人した教会)であり得るであろうか」、「教会が、神に対しても教会自身の使信に対しても、また外面的あるいは内面的に『壁ノ外ニ』いる人々に対しても、責任を負い得ないそのような仕方で、教会の人的構成の後継ぎについての心配を、静めることができると、かたくなに考えている限り、どうして教会が、他の世の人々に対して、信用できるものであり得るであろうか」、「この改革を回避することに固執しようとする限り、最上の教会論も、われわれにとって、何の役に立つであろうか」

バルトは、「エルンスト・ヴォルフの六〇歳記念論文集への寄稿文で、ブルトマン主義者たちが神の救済行為の私ノタメニの要素を強調しているのを見て〔すなわち、神の救済行為の個人救済の要素を強調しているのを見て〕、バルトは、〔「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題ではあるが、イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」(『『カール・バルト教会教義学 和解論Ⅰ/1 和解論の対象と問題』』)されるのであるから、先ず〕『ワレワレノ外ニという基本的な前提が破棄されずに個人救済としての』(私ノタメと私ノ中ノの代わりに、『われわれ』(ワレワレノタメニとワレワレノ中ニについて語られ保持されているのであればその点を手掛かりとして徹底的に話し合えると考えた。バルトは、『カール・バルト教会教義学 和解論Ⅰ/1 和解論の対象と問題』で、次のように述べている――イエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。それだけではなく、「イエス・キリストにおける『神われらと共に』という言葉、キリスト教使信の中心は、〔教会共同性、教団共同性のような〕狭い共同体からその事実をまだ知らぬすべての他の人々、広い共同体に向かっての運動において、完全に開かれている」、と。

 

 1962、「『福音主義神学入門』について、バルトは、『哲学<混合神学>に対する断固たる拒絶を〔換言すれば、「人間学の後追い知識」としての人間学的神学、包括的に言えば「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る神学に対する断固たる拒絶を〕、論述した』ものと考えた」。したがって、バルトは、「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよしないにせよ、やはりひとつの証しである限り、教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から提起される真理問題〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の真理〕はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」と述べた(『福音主義神学入門』)。

 バルトは、「自分自身の生涯を閉じるしばらく前に、……ある手紙に次のように書いた」――「私が、楽な死を迎えるか、それとも苦しんで死ぬかはどうしてわかるでしょうか? 私が知っているのは、ただ私の死もまた私の生に属している〔すなわち、類と歴史性(人間の類と人間の類の時間性としての歴史、世界史、人類史)――個と現存性(人間の個と人間の個の時間性としての個体史、自己史)の交点で生き・生活し・喜怒哀楽し・意志し・構想したその全生涯に属している〕……のだろうということです。……その時私は――これこそがわれわれすべての運命であり、限界であり、目標であるのですが――もはや存在しないでしょう」。何故ならば、人は自分の死を体験することができないからである。このように述べたバルトは、「だが私はそこでは、キリストの裁きの前で、私の全生涯において、その全生涯によって、努力放棄者として、まさにただ……〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリスト、〕彼の約束によって、義トサレタ罪人として立ちうるでしょう」と書いた。

 196231、「76歳のバルトは最終講義を行い、……引退生活にはいった」。しかし、「バルトにとって、老齢は、なんの活動も伴わない回顧があるだけ、僅かに休日の夕暮れの安定があるだけということではなかった。バルトにとっては、老齢者は、キリスト教の見地から言えば、……いかに強くとも、いかでか頼まん。やがて朽つべき、人のちからを。われと共に、戦いたもうイエス君こそ……(「讃美歌267番、ルターの「神はわがやぐら」)と歌って……生きることを許されている素晴らしいチャンスを与えられている者のことであった」。

 バルトは、「引退直後に七週間アメリカ大陸に出かけた」。ブッシュは、「シカゴでは、イエズス会士、ユダヤ教のラビ、自由主義プロテスタントの神学者、正統的プロテスタントの神学者、それに一人の信徒が参加したパネルディスカッションに出席した」、「そこでは、まったく率直な討論がなされ、当然、現われてきた意見の対立は、もみ消されたり、隠されたりはせず、情熱的に、しかし厳正に論じつくされた」。ブッシュの記述によれば、そこでバルトは、次のように述べたという――「この討論に参加したバルトは、もし自分がアメリカの神学者ならば、ヨーロッパに対してのあらゆる劣等感からも、アジアやアフリカに対する……優越感からも解放された自由な神学、〔生来的な自然的な〕人間性へと開放された自由の神学をつくり上げようとするだろう」。このブッシュの記述の最後の言葉は、<本当に本当か>という意味で最大級の注意を要するものである。何故ならば、ブッシュは、ここでも、この最後の言葉が、バルト自身が書いた客観的な資料によるものなのか、それとも討論会に出席した誰かのメモ書き等によるものなのかを明示せずに、ブッシュが、ただ「〔生来的な自然的な〕人間性へと開放された自由の神学をつくり上げようとするだろう」というように読めてしまう記述の仕方をしている時、換言すれば生来的な自然的な人間性へと開放された「『自然』神学」をつくり上げようとするだろうというように読めてしまう記述の仕方をしている時、木を見て森を見ないという仕方でその言葉だけを形而上学的に抽象し固定化し全体化してしまうと、バルトが「『自然』神学」を容認していることになってしまうからである。しかし、真の処女作『ローマ書』「第二版」以降一貫性をもって最後の最後まで「教義学的な合理主義を明確に否定し」、キリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学、「『<非>自然』な神学」の立場を堅持し続けた、それ故に一貫性をもって最後の最後まで『自然』神学」の<段階>から対象的になって距離を取ることを堅持し続けた神学における<思想家>バルトにおいては、『自然』神学」と「『<非>自然』な神学」とを混在させているただ単なる著述家としてのブッシュの記述のようなことは決してあり得ないのである。詳しく言えば、ブッシュのような単なる著述家ではないところの、真の処女作『ローマ書』「第二版」から一貫性をもって、時代と現実に強いられたところで、第二の形態の神の言葉である「聖書への絶対的信頼」に基づいて、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とし、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての自らの神学を、すなわち「教義学的な合理主義を明確に否定し」、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学、「『<非>自然』な神学」の立場に立脚した自らの神学を、断続性(言語の指示表出性)と連続性(言語の自己表出性)の構造を持って、レンガを積み上げるようにして積み上げ構成して行った神学における<思想家>バルトにおいては、<曖昧>な立場や<中立>の立場や<無関心>の立場や「『自然』神学」と「『<非>自然』な神学」との混同・混在・折衷の立場は全くあり得ない。したがって、バルトは、次のような決定的な言葉を置くのである――「しかしその自由な神学は、〔「『自然神学段階で停滞し思惟し語る神学ではなくてそれ故にニューヨークの自由の女神が表している自由を非神話化し〔換言すれば、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化された客体化された人間自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」としての「自由」、「存在者レベルでの女神の自由」を非神話化し〕、御子』〔イエス・キリスト〕が与え給う自由に基礎を置く神学であるすなわち、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた啓示神学、包括的に言えば「『<自然な神学段階で思惟し語る啓示神学である〕」。

 プリンストンでは、「キング牧師の説教も聞いたが、時間がなく話し合うことはできず、……いっしょに写真を一枚とっただけで終わった」。また、バルトは、「アメリカの刑務所制度に対する関心からアメリカの刑務所を、マンハッタン北部の、悪名高きイースト・ハーレムを、また186372日に行われたゲッティスバーグの決戦のいくつもの古戦場を視察した」。

 アメリカ旅行から帰ったバルトは、「さまざまな宗教書や世俗の読みものを読んだが、実存主義者たちのいつ終わるとも知れないおしゃべりに耳を傾けては、しばしば大きなあくびをした」。バルトは、「神学上の実存主義者たちの活動に対しては、……すでに以前から、いよいよただ吐き気と嫌悪を感じるだけだった」。このような「神学的状況全体のただ中で、人々は私に……敬意をはらって耳を傾けてくれるが、結果としては……本当に聞き入れてはくれないのだから〔すなわち、その全体性において本当に理解してくれないのだから〕、バルトは、『教会教義学』の続刊を書き続けることに没頭すべきかどうか迷った」。

 バルトは、「全体主義世界と全体主義国家の中にある可能性について、……もともと国家は全体主義的国家のような性格をそれ自体として持っている〔詳しく言えば、それが自由主義国家であれ、社会主義国家であれ、欧米諸国家であれ、ロシアや中国であれ、どこどこの国家であれ、それらすべて国家は、国家<共同性>に第一義性・価値性を置く<国家主義的>国家である、それ故に欧米の自由主義国家は国家主義的な自由主義国家であり、ロシアや中国の社会主義国家は国家主義的な社会主義国家である、それ故にまた現在のウクライナ戦争も大多数の被支配としての一般大衆・一般国民が起こした戦争では全くなくて、あくまでも一部国家支配上層(具体的には、政府・政権)の意思によって巨大で強力な国軍を動員できる民族国家間の戦争である、欧米の政府・政権、アメリカを中心とする軍事同盟NATO(北大西洋条約機構)とロシアの政府・政権間の戦争である、それ故にまたロシアと国境を接する東方のウクライナ政府・政権はNATO軍事勢力圏の東方拡大政策を目指すアメリカを中心とした欧米国家の政府・政権、アメリカを中心とした欧米の軍事同盟NATOに利用されているだけである、そしてその中で犠牲になっているのは、そうした国家の政府・政権によって戦争へと駆り立てられ、自分たちや自分たちの家族や親族や友人やを死に追いやられて行く当事国の大多数の被支配としての一般大衆・一般国民である、それだけでなく世界中の大多数の被支配としての一般大衆・一般国民である〕」――このように述べてからバルトは、制度としての教会や制度としての牧師や制度としての神学者を中心としてそのまわりに集まる教会には教会の可能性はないと述べた、換言すればⅠコリント3エフェソ211-22からして、「イエスのまわりに集まる教会に一つの可能性があると述べた」。

 バルトは、「ヨセフスタールで開催された神学協議会で、ゲルト・フォン・ラートとの対話に喜んで加わり、……現在の旧約聖書神学が全体として、ほとんどまったく実存主義に汚染されていないことに対して〔換言すれば、「『自然』神学」に汚染されていないことに対して〕、驚きを表明した」。

 バルトは、「ラインラント州の青少年担当牧師たちとの対話において、〔シュライエルマッハーと同様に「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る「ヘーゲルの強力な痕跡」を持っている」(『ヘーゲル』)〕ブルトマン問題のために、激しい口論となった時、バルトに一人の若い人が……先生、あなたは歴史を築いてこられましたが、今やあなた自身もまた歴史になってしまわれました〔換言すれば、あなたの神学は、自然時空に死語化してしまいました〕。しかしわれわれ若い者は、新しい岸辺を目指して出発しようとしているのです!」と述べたのに対して、バルトは「それは結構だ。それを聞いて私も嬉しいです。では、君の言う新しい岸辺について少し語ってくれませんか!」と返答したのであるが、その「若い人は、残念なことにその岸辺について何も語れませんでした」と述べている。まさにその「若い人」は、神学における「問題を明確に提起する」ことができない自分自身の無知を認識し自覚していないところの<ヒヨコに過ぎなかった>のである。このような訳で、その「若い人」に限らず、木を見て森を見ないという仕方である「抽象的ナ」形而上学的な見方しかできないところの、トータルな世界認識の方法を持たないところの、人間存在の総体性について認識していないところの、現実的な社会の中で具体的に生き生活している<個体的自己>としての全人間に第一義性・価値性を置かないところの、革命の究極的問題と過渡的問題とを明確に提起しないで、その最初から、それを疎外したこちら側の主体に第一義性・価値性を置くのではなく、向こう側の観念の共同性を本質とする国家<共同性>に第一義性・価値性を置いて思惟し語っているところの、それ故にその最初から擬制民主主義としての議会制民主主義における国家<共同性>を前提として思惟し語っているところの、それ故にまたその国家<共同性>の法的言語と政策的言語を前提として思惟し語っているところの、それ故にまた戦争の元凶である民族国家を前提として思惟し語っているところの、大人になってもヒヨコのままでいる大学社会の学者、知識人、著述家、政治家、宗教家、作家等と自称する人はごまんといる。

  このような「多くの対話とインタヴューの中で、バルトは、プロテスタント神学の現状について、神学上の虚栄の市だと感じ、貧弱な『偏平足の神学』だと思い、不信の念を表明した」。「屋上のテラスでは……〔「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る〕ティリッヒとブルトマン主義者たちが、問題のあるボンヘッファーの影といっしょになって荒れ狂っています。そしてあわれなロビンソン司教は、二十万部売れた『神への誠実』の中で、これらすべてのものから空しい泡沫をすくいあげ、それを究極の知恵として――とにかくブルトマンには大変ほめられて――売り出しました」。しかし、その前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンは、その前期と後期との全体性において思惟し語ったハイデッガー自身から、ブルトマンにおける「いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うこと」であるから、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」(木田元『ハイデッガーの思想』)と客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に「揶揄」され批判をされてしまった。このブルトマンについては、「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その1)の「8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」について(その3)」の「<5>.ルドルフ・ブルトマン」を参照されたし。「特にプロテスタント神学内での討論において、バルトに聖書のテキストの理解に対する、したがって、『解釈学の』問題に対する問いが発せられた。その問いに対して、バルトは、その問題を主要な問題として、〔換言すれば、木を見て森を見ないという仕方で形而上学的に〕それだけを切り離して取り扱うならば、袋小路に迷い込むことになる」と述べた。ブルトマンは、知識人、「教養人」と呼ばれる「同時代の人たちの思考の前提に対して、そこから形成された理解の規準に対して誠実と真実をささげようとした」のであるが、重要なことは、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「十字架につけられ復活したイエスキリストにおけるわれわれの実存という場所において、われわれの信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗しても、われわれのために生きて、われわれを支配し、われわれを愛し給うイエスキリストを、認識し、持つことができることを示すということに誠実と真実をささげる」という点にある。神学における<思想家>のバルトは、ブッシュの記述によれば、ブルトマン等々に対して、「『解釈学に関する緻密に入り組んだ無駄話』を嘲笑し、『神学市場に売りに出されている言葉の出来事という表現を聞くにつけ、私はそれの議論に注意してフォローしてきたのです(ついでにその出来事の最も騒々しい参加者を、私は……世界の国々の人々を集合させた庭園の飾り人形だと言ったものです)』」と述べたという。また、ブッシュの記述によれば、バルトは、「われわれが聖書の証言に出会うことが問題なのでなく、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の主観的側面」としての「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて、そして第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、〕われわれが聖書の証言の中で証しされている方に出会うことが問題なのです」、それ故に「われわれの祈りの中での働きは、聖書の証言がイエス・キリストを証しして『いるのかどうか、またどこまで彼を』証ししているのかという問いをもって『歴史的=批判的に読むことである』が〔このブッシュのただ単に「歴史的=批判的に読むことである」とだけ記述している言い回しを、『教会教義学 神の言葉』に即して詳しく言えば、すなわちバルト自身の言葉に即して詳しく言えば、そこにおいては、「啓示は歴史の賓辞ではなく、歴史が啓示の賓辞である」ことからして、「聖書の歴史は、その歴史を、一般的な歴史性を含んではいるが史実史ではない歴史物語、古譚として受けとる点にある」ということ、それ故に「正しい注釈を、最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」時、「教会の宣教をより危険なものにしてしまう」ということ、それ故にまた類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された人間自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」としての「人間精神が生み出したものを問題とするところの、換言すれば啓示を問おうとしないで人間精神の自己理解を第一義として聖書の中でも神話を問うことをするところの歴史主義」に対する根本的包括的な原理的な批判を含んでいるということに対する認識と自覚が必要である〕、その際いかなる場合にも、われわれが主導権をとってはならず、神の言葉の自由が……制限されてはならず、神の言葉の方に主導権がゆだねられなければなりません〔具体的には、第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としなければなりません〕」と述べたという。したがって、バルトは、「もちろん、われわれは誰でも、なんらかの存在論や世界観を頭の中に持っています。そういうこともまた禁じられているわけではありません。……ただし、われわれが聖書を読む時に、そういうものがわれわれが関わり合う最終の決定機関であると考えてはならないのです〔換言すれば、具体的には第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としなければなりません〕」と述べたという。また、バルトは、「週刊チューリッヒ誌の寄稿文に、ベンゼの穏健な無神論も、東洋の粗野な無神論も危険ではなく、キリスト者の無神論的な実際の生き方こそが危険なのだ!」と書いたという。何故ならば、そこでは、「神への反逆が、ごうまんにも神を忘れた公然たる反抗として行われず、実に神の名において〔しかも実に、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の名ではないところの、すなわちまさに類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神の名」に過ぎない偽りの神の名を、あたかもキリストにあっての神としての神の名であるかのように偽ったところの、偽りの神の名において、その偽りの〕、神の呼びかけのもとに行われるからである〔すなわち、その「存在者レベルでの神」の呼びかけにもとに行われるからである〕」(トゥルナイゼン『ドストエフスキー』)。バルトは、『啓示・教会・神学』で、次のように述べている――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意〔類的機能を持つ彼の自由な人間的理性や際限なき彼の人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された彼の観念的生産物としての彼自身の意味世界・物語世界・神話世界、すなわち「存在者レベルでの神」の名における彼の善意〕によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された〔彼、人間自身の〕支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された〔彼、人間自身の〕救いの計画と救いの方法が支配するところそのようなところではその意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、〔第三の形態の神の言葉に属する「教会に宣教を義務づけている」第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする〕教会は存在しないのである。そのような〔彼、人間自身の〕救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」。

 

 「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る「パウル・ティリッヒの最後の訪問に際して、バルトは、今こそ回心して正道に立ち戻るべきだと警告したが、彼にはまったくそんな気持ちはなかった」。ティリッヒは、「ヨハネ福音書一・一四のその言葉をあまりにも文字通りに解釈することに反対するとの見解をバルトに述べた」。

 

 1964、「前立腺の手術を受けるだけでなく、軽い脳卒中の発作で半日間……言語障害に陥った」。

 

 1965、バルトは、「『すべての人の人生には……陰があるのを』見た。『その重苦しい陰はまだ消え去ろうとはしませんし、おそらく神の御心によれば、まさに神に愛された者である、われわれ自身が神を愛し讃美することができるその場所に、われわれをしっかり結びつけておくために、消え去るべきではないのです』」と手紙に書いた。誰にでも、もし出来得ることならば、完全に消し去ってしまいたい記憶や思い出があるに違いない。

 196512、「バルトはもう一度バーゼル刑務所で説教しようと考えていたが、できなかった。したがって、1964329日の復活祭の説教が最後の説教となった(「弟子たちは主を見た」ヨハネ2019以下)〔因みに、『カール・バルトの生涯』ではこのように記述されているが、『カール・バルト著作集17』「主をみた時 ヨハネ福音書二〇・一九-二〇」蓮見和男訳、1970年では、1963529日復活祭となっている〕」。この説教については「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その2)の「3.「『<非>自然』な神学」の完成の書としての『教会教義学』への道程」の「19404」のところを参照されたし。

 バルトは、「礼拝出席が次第に困難になるにつれ、よい日曜日の朝にはいつも、カトリックの説教とプロテスタントの説教をラジオで聞くようになった」。

 

 1966、バルトは、「E・ブルンナー逝去する少し前に、ブルンナーの友人に、〔私たちのことは、復活されたキリストの再臨、終末、「完成」の時の神の裁きに、〕神にゆだねましょう! 大いなるあわれみの神が、私たちすべてに恵み深い然りを言い給うことによって、私たちは生きているのだからですと伝えてくれるように依頼した」。

 バルトは、「大西洋の此岸と彼岸で、栄光に満ちた実存主義の最後の最も美しい成果として出現した、〔ただ単に類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化されたその人間自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」に過ぎない、それ故に「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」(木田元『ハイデッガーの思想』)〕馬鹿げた<神の死>神学運動についての議論や精神的にも信仰的にも、ほんとうに召しも受けず、その能力もないのに、そこに飛び込まなければならないと考えた、……信仰告白運動に関与する形ではないやり方で、今一度神学の現状と取り組むことにした」。ブッシュの記述によれば、「信仰告白運動に対して、バルトは、聖書の証言にあるように、われわれのために十字架につけられ復活したイエス・キリストに対する君たちの信仰告白は正しいと述べた」うえで、次のように語ったという――「その正しい信仰告白の中に、核武装に反対し、アメリカのベトナム戦争に反対し、新しいユダヤ主義に反対しということを含んでいるだろうか、と。もしそうでないのなら、その告白は正しいとしても、価値のある、実り豊かな告白であるとは言えないであろう」、と。言い換えれば、その最初から二元論的に分離し対立させて言葉だけでなく行為も、理論だけなく実践も、説教(言葉)だけでなく社会的政治的実践(行為)もという仕方では全くなくて、時代と現実に強いられたところでの「その正しい信仰告白」(言葉)が、「ある<不可避的な>社会的政治的状況下において、その状況に抗するそれとして」、「おのずから」、自然に、必然的に、「決断へと、実践へと、行動へとつれ出して行く」ものでなければ、「その告白〔言葉〕は正しいとしても、価値のある、実り豊かな告白であるとは言えないであろう」。

 バルトは、「われわれの側からローマ・カトリック教会へ、あるいは逆に、向こう側からわれわれの教会への一つの改宗は、本来なんの意味をも持たない」と述べて、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを教えるという仕方で、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すという回心である場合のみ、「イエス・キリストへの、一つなる、聖なる、公同の、使徒的教会の主への良心的必然性をもった回心である場合にのみ、意味をもつ」と述べたという。バルトは、「カトリック教会の革新に対して、過大評価はしなかった。進歩派に対しても疑念を抱いた」。何故ならば、「あるカトリック教会が、あまりにプロテスタント的になり過ぎて、われわれが十六世紀以来犯してきた誤りを繰り返すような動向を見せたからである」――「教皇ピオ九世のことを考えてごらんなさい――若い革命家が簡単に年老いた反動主義者になったではありませんか!」。

 1966年秋、「妻と医師が同行して、六日間の『使徒タチノ墓ヘノ巡礼ノ旅』に出た」。

 

 1967、「いつの日か、……人は私が正しかったと言ってくれる日も来るであろうという思いのもとで、『教会教義学 和解論』のⅣ/4、『キリスト教的生の基礎づけ』洗礼論が出版された。これが、『教会教義学』の最後の1冊となった。したがって、「要求の強かった『教会教義学 救済論』は未完に終わった」。しかし、バルトは、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第三の存在の仕方である神的愛に基づくところの、起源的な第一の存在の仕方である(啓示者・言葉の語り手・和解者)<と>第二の存在の仕方である(啓示・語り手の言葉・和解者)の交わりとしての「聖霊〔すなわち、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者〕に関わる救済論については、すでにそれ以前に出版された諸巻から間接的に、あるいは一部は直接的にも読みとることができると考えた」。

 バルトは、例えば「神学の全体をまさに終末論へと上昇させてしまう『一直線の考え方』に対して、疑念を抱いた」、「直ちに全面的に放棄しなければならない」と考えた。例えば、人間中心主義的な自由を原理とする西欧近代に人類史の尖端性を見たヘーゲルの歴史哲学に依拠し、ヘーゲルと同様の<直線的な>神学的な三段階的進歩史観を主張したモルトマンの神学に対して、「疑念を抱いた」し、「直ちに全面的に放棄しなければならない」と考えた。すなわち、バルトは、ヘーゲルが除外した人類史の原型・母胎・母型としてのアフリカ的段階、日本で言えば縄文的段階、北米で言えば北米インディアン的段階等の「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになるために、われわれは、〔資本主義を主たる経済的基盤とし自由を原理とする西欧近代を人類史の頂点とする歴史の<直線的な>進歩、発展という〕ヘーゲルの思想を直ちに全面的に放棄しなければならない」と考えた(『ヘーゲル』)。

 バルトは、「その地上での生活が、そのためについやした労苦は、同じくらいか、さらにははるかに大きなものであったにもかかわらず、私とは違って暗闇や薄暗がりの中にとどまっている多くの人たちへの思いが〔例えば、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』や『説教の本質と実際』に即して言えば、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民・一般国民、「町や村や料理屋や宿屋の人間の現実生活」、「貧しい、低きにいる民」への思いが〕、しばしば私の心に浮かんできました。有名になることは……実際まったく結構なことです。しかし、誰が最後にほんとうにほめられることになるのでしょうか、と回状に書いている」。吉本隆明は、「人類は、文明の進展やエリート層への従属のために存在しているのではない」のであるから、大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民が、「歴史の主人公だとおもうためには、まだやること、創られるべき物語はたくさんあるのです。意識のなかの転倒、知識のなかの転倒、政治のなかの転倒をふくめて、すべてひっくり返さなければいけない反物語ばかりです。知識は非知より優れていて知識人が非知識人を導くというようなかんがえ方は、絶対に転倒されなければいけない」(吉本隆明『大状況論』)。したがって、知識、知識人、知識的集団、知識人集団、前衛の側からする大衆啓蒙、大衆迎合、外部注入論は止揚し克服されなければならない。

 ブッシュの記述によれば、バルトは、手紙に、次のように書いているという――「私の著作は、単に私の研究からだけでなく、私自身との、さらに世界と人生の諸問題との、長く続いた、しばしば容易ならざる闘いとから生まれたことを考慮し、実践的に聞くという態度に参与しようと努力しつつ読んでくださることを期待します」、また「われわれは、天国においてはすべて必要なものを知るようになり、もはや一枚の文書も書いたり読んだりする必要はなくなるでしょう」、と。ドストエフスキーは、『罪と罰』で、マルメラードフに次のように終末論的告白をさせている――「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」、「主よ、汝の王国の来たらんことを」。

  1967、バルトは、歩行も困難になる。

 ブッシュは、ここでもバルト自身が書いた客観的な資料によるものなのか、それとも訪ねて来た人のメモ書き等によるものなのかを明示せずに、恣意的独断的な言葉で、次のようなことを書いている――「ブルトマンとエルンスト・フックスから出発し『教会教義学』の『神論』を全く新しい視点から取り上げようとした試論によって周囲からも期待された〔「ヘーゲルの強力な痕跡を持っている」、換言すれば「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る〕エーバーハルト・ユンゲルに対して、バルトは、当時しばしば彼の所に訪ねて来た人との意見の交換において、彼を高く評価した〔このことは、あくまでもただ単にユンゲルのヘーゲル哲学に対する<学業的>知識の高さを評価しただけであるということに違いないのである〕」、と。このようなことは、何度も書いているが、真の処女作『ローマ書』「第二版」以降一貫性をもってレンガを積み上げるようにして「『<非>自然』な神学」を構成して来た神学における<思想家>バルトにおいては絶対にあり得ないことである。このようなことは絶対にあり得ないということについては、「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その2)の「3.「『<非>自然』な神学」の完成の書としての『教会教義学』への道程」の「1939年秋」のところと、「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その1)の「8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」について(その3)」の「<6>.ユンゲル・モルトマン、エーバーハルト・ユンゲル、パンネンベルク」のところを参照されたし。

 バルトは、「カルヴァンの聖霊論と信仰論を、彼の神学における最良の部分とみなした」。バルトは、「『革新されつつある教会』という講演で、もし革新されつつ生きることが教会の本質にかかわることでないならば……教会はもはや教会ではない」と述べた。

 

 1968、バルトは、「シュライエルマッハーの『宗教講話』をテキストとして、最終のコロキウムを行なった」。バルトは、「『この十九世紀の(さらに二十世紀の、とも言えるかもしれないが……)教会教父』と対決し、対話しようと考えた」。ブッシュは、このことと同時に、バルトは、まさに「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る近代主義的プロテスタント主義的神学者の「シュライエルマッハーを烈しく批判したが、彼から離れてしまうことはなく、しかも彼の問いを完全に卒業してしまうこともなかった。それどころか、天国でのシュライエルマッハーとの『再会を、……ほんとうにたのしく思い浮かべた』」と恣意的独断的に記述しているが、しかし、このブッシュの全く以て恣意的独断的な「彼の問いを完全に卒業してしまうこともなかった」という記述に対してもまた、われわれは最大級の注意を要するのである。何故ならばバルト自身は、逝去した最晩年のシュライエルマッハー選集への後書(邦訳J・ファングマイヤー『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし 1968年」)において次のように述べているからである――わたしは事柄そのものにおいてシュライエルマッハーと一致できないのだということを明言した(中略)わたしがシュライエルマッハーを今までに理解した限り自分は〔「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語る〕彼のそれとは全く違った〔すなわち、「教義学的な合理主義を明確に否定し」、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学、「『<非>自然』な神学」の道〕に踏みこみそれをあゆんでいかなければならないと思った今もそう思っているのである。したがって、邦訳「シュライエルマッハーとわたし 1968年」の訳者の蘇は、その「あとがき」で、客観的な正当性と妥当性とをもって次のように述べている――「バルトの第三項の神学〔聖霊の神学〕という発言について、これをバルトの『転向』と誤解する者は〔換言すれば、これを「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語るところの近代主義的神学あるいは自由主義的神学へのバルトの回帰・復古・逆行・退行と誤解し誤謬し曲解する者は〕、明らかにその前後数頁だけしか読んでいないのである」、と。この指摘は全く正しいので、ブッシュは、逝去した最晩年のバルトの『シュライエルマッハー選集への後書』の「明らかにその前後数頁だけしか読んでいないのである」、あるいは全く読んでいないのである、あるいは全くの誤解、誤謬、曲解の下で、バルトが近代主義的神学、自由主義的神学、包括的に言えば「『自然』神学」を容認したかのように<捏造>しているのである。したがって、われわれは、それが、学問領域か知識的領域かメディア領域において、ある分野で権威者とされている人物であっても、木を見て森を見ないという仕方である「抽象的ナ」形而上学的な見方しかできないところの、トータルな世界認識の方法を持たないところの、人間存在の総体性について認識していないところの、現実的な社会の中で具体的に生き生活している個体的自己としての全人間に第一義性・価値性を置かないところの、革命の究極的問題と過渡的問題とを明確に提起しないで、その最初から、それを疎外したこちら側の主体に第一義性・価値性を置くのではなく、向こう側の観念の共同性を本質とする国家<共同性>に第一義性・価値性を置いて思惟し語っているところの、それ故にその最初から擬制民主主義としての議会制民主主義における国家<共同性>を前提として思惟し語っているところの、それ故にまたその国家<共同性>の法的言語と政策的言語を前提として思惟し語っているところの、それ故にまた戦争の元凶である民族国家を前提として思惟し語っているところの、すべての学者や知識人や著述家や政治家やメディアの「知識や情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりいない方がよい」のである(吉本隆明『自立の思想的拠点』「日本のナショナリズム」)。バルトは、シュライエルマッハーとの関わりの中で、自問した――「すべてを最もよく解釈すれば、一種の聖霊の神学というものが、シュライエルマッハーの神学的行動を……支配している正当な関心事であったという可能性を、わたしは予想したい〔一つの願望として、そうであることを望みたい〕」。例えば、「絶対依存感情(敬虔心)の概念に対する問いに弁証法的に答える」場合、その概念は、自己身体を座とする類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟の働きとして、ある対象を知覚作用により対象化し、その内在化された対象を概念的対象として対象化(概念化作用、内在化された対象の時間化)する概念構成の問題と同じであるという点においては、あるいはその内在化された対象を感情的対象として対象化(内観的作用、内在化された対象の空間化)する感情作用と同じであるという点においては、それはまさに人間学的概念であるが、もしもその概念を「イエス・キリスト自身の霊的現臨またはその力として根拠づけ得るとすればどうであろうか」、という問であるしかし残念なことにこのことはシュライエルマッハーにおける深い問題性であるが「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆、神の自由を認識していないという事態にある」人間中心主義的な「自己への信頼としての自信自恃の哲学であり、人間の時代の哲学〔すなわち、、まさに近代の哲学、近代主義的哲学〕である」「ヘーゲルの強力な痕跡」(『ヘーゲル』)を持つシュライエルマッハーは明らかに、〔まさに近代主義的プロテスタント主義的神学者として、「『自然神学段階で停滞し思惟し語るという仕方で、〕聖霊論が人間学であるかの如く論じたのである」。それに対して、バルト自身は、『教義学要綱』および『バルトとの対話』で、はっきりと、次のように述べている――聖霊は、人間精神と同一ではない。人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、聖霊によって更新された人間の理性性(主観的な「認識的な<ラチオ性>」)も聖霊と同一ではない、と。シュラエルマッハーについては、「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」(その1)の「8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」について(その3)」の「<4>.近代主義的(自由主義的)プロテスタント主義的神学者フリードリヒ・シュライエルマッハー」を参照されたし。

 

 バルトの最後の言葉――それは、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(その「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書の中で証しされているところの、「自己自身である神」としての対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としてのただイエスキリストのだけである――この「一つの事柄に仕えなければならないのであって、一つの党派〔学派、教派、思想傾向、主義、時流等〕に仕えなければならないことはない……。この一つの事柄に対して自分の立場〔すなわち、「教義学的な合理主義を明確に否定し」、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学、「『<非>自然』な神学」という立場〕を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(教会教義学 神の言葉』)「イエス・キリストは、わたしにとっていついかなる所でも……彼によって呼び集められ委託を受けた教会にとって――また、教会にゆだねられた音信(おとずれ)によれば、全人類、全世界にとって、かつて在り、今在り、そして将来も在り続けたもうところのものにほかなりません(それ以上でも、それ以下でも、それ以外のものでもありません)」。

 キリスト者ではないが言葉の専門家の吉本隆明と太宰治は、聖書の<言葉の力>について、次のように述べている――「……<奇蹟>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流の言葉〔詩、文芸批評、思想の言葉〕でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が二度なく前に三度私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです(吉本隆明『<非知>へ――<信>の構造 対話編』「吉本× 末次 滝沢克己をめぐって」)、「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭にはいって来ない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」(太宰治『正義と微笑』)。

 

 1968「バルトは、1969年の初めに、スイス放送が計画した二回分の録音テープをとった」。その「一つの放送」で、バルトは、「『自然』神学」の<段階>で停滞し思惟し語り、「人間学の後追い知識」としての人間学的神学を目指している「自由主義者をもって任じている人々よりも」、「ただイエス・キリストの<名>だけに」感謝をもって信頼し固執し固着する者として、それ故にイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」に信頼している者として、すなわちその<総体的構造>に信頼している者として、そして「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である「聖書への絶対的信頼」を持っている者として、「もっと自由主義的であるかもあるかもしれませんと語った」。

196811月中旬のスイス放送では、バルトは、次のように語っている――「私が神学者として、そしてまた〔時代や現実に強いられた<不可避的な>〕政治家としてでも、語るべき最後の言葉は、恩寵といった概念ではなく、一つの名前、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕イエスキリストなのです、「私が私の長い生涯において努力してきたことは、いよいよ力をこめて、この名を強調し、そして、そこにこそ! と語ることでした。この名前以外のいかなる名前にも、救いはありません。そこにこそ、恩寵があります。そこには仕事と闘いへと向かうはげましがあり、共同体と仲間の人たちとの交わりへと向かうはげましがあります。そこには、弱く愚かであった私がその生涯において試みたすべてのことがあります。しかしそれらすべてもこの名、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕イエスキリストの名においてなのです、と。 

 1968129日、月曜日、バルトは、「夜の九時頃、六〇年来真実に結ばれてきた友人のエドゥアルト・トゥルナイゼンからの電話を受け、暗い世界情勢について話し合った」。その時、バルトは、「しかし、意気消沈しちゃ駄目だ! 絶対に! 主が支配し給うのだからね!」と言った。「電話がかかってきた時、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である、人はみな、神に生きる者だからであるという文章を書いているところだった」という。バルトは、「その夜半のある時点に、誰にも気づかれずに死んでいた。彼は眠っているかのように横たわっていた。手は自然に、夕べの祈りの形に組まれたままだった」という、「ネリ夫人が、朝に、モーツァルトのレコードをバックに流しながら、彼をそっと起こそうとした時、このような姿で死を迎えた彼を見た」という。(文責:豊田忠義)