1.宗教改革者ルターを否定的に媒介した「『自然』神学」との訣別としての宗教改革書『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』への道程

(エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社、1989年に基づく)

 

 詩人であり文芸批評家であり思想家である吉本隆明が述べているように、われわれは、<真の意味での処女作の概念>を、「個人の生涯の思想が、処女作にむかって成熟し、本質的にそこですべての芽がでそろうもの」であり、それ故に「かれは、生涯これをこえることはなかった」というところで理解した。したがって、その本来的な意味でのバルトの処女作を、その生涯における思惟と語りにおいて最晩年まで貫徹し続けた「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>(聖書的な「主要な言明」、「主要な線」、「『<非>自然』神学」的な言明)の問題を明確に提起した『ローマ書』「第二版序言」(『ローマ書』「第二版」)以降(19219月、バルト35歳の時)と確定した。このような訳で、その処女作の完成までの道程を、エーバハルト・ブッシ『カール・バルトの生涯』に即して、1907年以降から時系列的に辿って来た。この道程は、すでにJimdofreeのホームページ「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」の「11.(ア)<処女作の概念の確定>と概念的にその(イ)<本来的な意味でのバルトの処女作の確定>について」において詳しく述べたので、ここでは、彼の処女作である『ローマ書』「第二版序言」(『ローマ書』「第二版」)以降の彼の生涯を、同じく『カール・バルトの生涯』に即して時系列的に述べていきたいと考える。

 

バルトは、1920年代を、「『時の間』の時代と見て、生きた」。バルトは、この「時の間」の時期に、その時代と現実とに強いられて、「『自然』神学」の段階で思惟し語るローマ・カトリック<主義>に対してプロテストし、また「『自然』神学」の要素を温存させていたルターの思惟と語りを<否定的に>媒介して、すなわちその最たるものである、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、生来的な自然的なわれわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという「神人協力」を目指すベクトルを持っているところの、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の<属格>の<目的格的>属格理解(「イエス・キリスト<を>信じる信仰」)を<否定的に>媒介して、それ故に「ルターの翻訳の<絶対化>」に基づいてなされた現行の聖書訳を<否定的に>媒介して、「『自然』神学」から訣別する宗教改革書『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』を著わすことへと向かった。この詳細については、Jimdofreeのホームページ「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」の「9.『福音と律法』および『神の恵みの選び』について」および8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」について(その2)を参照されたし。

 

 先ず以て、ブッシュの『カール・バルトの生涯』の「Ⅳ 時の間 ゲッティンゲンとミュンスターの神学教授として19211930年」の記述における<欠陥>は、その「時の間」の時期における時代と現実から強いられて『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』へと向かうバルトが、聖書的な「主要な言明」、「主要な線」、「『<非>自然』神学」的な言明からして、自らの立場において、神学における<思想の問題>としての「『自然』神学」を包括し止揚して行くその思想形成の過程が記述されていないという点にある。言い換えれば、ブッシュには、バルトが、神学における<思想の問題>――すなわち、「『自然』神学」の問題を明確に提起すること、換言すればバルトが自らの立場において、徹底的に「『自然』神学」を根本的包括的に原理的に止揚し克服して行くというその思想形成の過程についての認識と自覚が<欠如>しているのである。ここからは、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』へと向かうバルトの生涯を、時系列的に辿ってみる。

 

 1921のゲッティンゲン大学の教授としての赴任は、バルトにとって、今までの「誤りと失敗」に満ちた「運動」の<終わり>と、処女作『ローマ書』「第二版」の次にやってくる、時代と現実が強いてくる神学における<思想の問題>を扱う「仕事のはじまり」を意味していた。このような訳で、バルトの神学的営為は、自然科学系と人文科学系の自由な学問、研究の場である大学における学業的な単なる知識としての「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(「形而上学的神学」、「形而上学的な教義学」、「混合神学」、「人間学的神学」)とは違っていた(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。11月の説教で、バルトは、「神学の学問性」は、「いっさいの人間の名前から逃走して……〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕啓示された主の御名に赴くこと」、「主の御名について知ること」、すなわち「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」について知ることである、と述べている。したがって、彼は、「非情な集中力で講義の準備に没頭した――『ほとんどたいてい徹夜で!』」。何故ならば、バルトは、「あわれな騾馬のように、まるで霧の中を自分の道をさぐりあてなければならなかった」し、「学問的機敏さが欠如していて、ラテン語の知識も不十分で、記憶力もわるいという条件の下で」、しかも「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(すなわち、「形而上学的神学」、「形而上学的な教義学」、「混合神学」、「人間学的神学」)とは違った学問としての神学(すなわち、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの補助的機機能、教会的な補助的奉仕としての神学、教義学)に没頭しなければならなかったからである。バルトは赴任当時、「改革派の信仰告白文書を所有してもいなければ、……読んでもいなかった」が、バルトのその神学的思惟は、当然にもその出発の時点においては、「改革派的であり、カルヴァン主義的であった」。そうした中で、教授職遂行のために「相当厳しい徹夜の勉強によって」、その晩年までの神学的営為の総体的過程において、当然にも先ず以ては、「ますます自覚的に改革派の神学者となり、『……純粋な改革派の教理に関心を持つようになって』いった」。バルトは、ゲッティンゲン大学で、「ルターとフィヒテの偉大な研究家」であり、「ドイツ=国家主義的であった」エマヌエル・ヒルシュと「議論と論争をかわした」。その「議論と論争」において、「『自然』神学」の系譜に属するヒルシュの「一般的な宗教書としての聖書という理解に対して」、「『<非>自然』な神学」の段階へと歩みを進めているバルトは、「具体的な〔起源的な第一の形態の神の言葉である〕神の啓示の原典としての〔イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての第二の形態の神の言葉(その「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である〕聖書という……理解を対置させた

 

 1922、バルトは、「神学の主題と方法」について、フリードリッヒ・ゴーガルテンとの間に決定的な差異性を認識し自覚する。すなわち、「〔第三の形態の神の言葉である教会の〕ハイデルベルク信仰問答や〔第二の形態の神の言葉である〕エペソ書について正しく語ることができる前に、まず〔人間の類の時間性としての〕歴史とは何かを理解しなければならない、〔人間の類の時間性としての〕歴史概念を理解しなければならない」と主張するゴーガルテンに対して、バルトは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書におけるエペソ書、それからその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>ハイデルベルク信仰問答を「研究し、それをきっかけとして、初めて〔人間の類の時間性としての〕歴史とは何かを理解しようした」。このバルトは、「啓示は歴史の賓辞ではない」、「歴史が啓示の賓辞である」と述べている(『教会教義学 神の言葉』)。

19222、バルトは、マールブルク大学の新約学の正教授のブルトマンを、マールブルクに訪ねている。「興奮をもって」<前期>ハイデッガーの哲学原理を受け入れそれに依拠したブルトマンは、バルトを誤解し誤謬し曲解したまま、『ローマ書』「第二版」の書評において、全く以て「『自然』神学」の系譜に属する「シュライエルマッハーやR・オットーやトレルチが、宗教という表題のもとで論じたことと同列において」、「全面的に賛同した」。人間中心主義的な人間的現実存在(思索者・詩作者)の自由なその思考、その現存性、その時間化(差異化)と存在了解、その企投性、その個と現存性の限界性をまだ自覚していない、換言すればその被制作性、その被投性、その言語、そのシンボル体系、その不可避的な類と歴史性の第一次性を自覚していない<前期>ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンの「絶対的規準としての先行的理解と解釈学的原理」によれば、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書記事」は、そして「新約聖書の使信そのもの」も、「その表象形式の神話」も、人間の自己認識・自己理解・自己規定の表明であり、それは、「非本来的存在から本来的存在への、過ぎゆく存在から将来の存在への移行の歴史〔人間の個の時間性としての自己史、個体史〕であり」、「実存的移行の表明であり」、自由な人間的理性や人間的欲求によって対象化され客体化されたその人間の意味的世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「聖書記者たちの実存的主張である」から、そのように「理解し、解明されなければならない」とされる、また「神話的世界像と神話的人間像は時代の経過と共に、われわれの前から消え去ってしまう」し、われわれの「眼前存在」、現前性は「近代的な世界像、人間像にある」から、すなわち近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にあるから、「神話形式のままでは、新約聖書の言表、すなわち語られた内容の表現は理解できない」が故に、「それは非神話化されなければならない」とされる。この<前期>ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンは、当然のことながら、<前期>ハイデッガーと<後期>ハイデッガーの総体性を生き思惟し語ったハイデッガー自身からは、客観的な正当性と妥当性とをもって、「『今日まさにこのマールブルク〔ブルトマン、ブルトマン学派〕では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりはむしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい、『いわゆる〔自由な人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、〕存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神を見失うことではなかろうか』」、と根本的包括的に原理的に「揶揄」され批判されている(木田元『ハイデッガーの思想』)。当然のことながら、バルトは、「ブルトマンの特殊な主題とその原理的な方法」に対して、「ブルトマンに従うことができなかった」。何故ならば、「そこでは、神学は……新しく特定の哲学〔人間学〕にとらわれて、エジプト捕囚ないしバビロン捕囚の身になっているのを、……見た」からである。したがって、バルトは、次のように語っている――「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」、「責任的応答をなすべきなのか?」、ハイデッガーのような「同時代の人たち〔「教養人たち」〕の思考の前提に対してか?」、「そこから形成された理解の規準に対してか?」―― 否である。われわれは、「十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおけるわれわれの実存という場所において、われわれの信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗しても、われわれのために生きて、われわれを支配し、われわれを愛し給うイエス・キリストを〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」、と(『ルドルフ・ブルトマン』)。バルトのブルトマンに対する根本的包括的な原理的な批判の詳細は、Jimdofreeのホームページ「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」の「8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」について(その3)」を参照されたし。

1922、バルトは、「三つの大きな講演で、彼の神学を明確に語っている」。バルトは、その講演で、危機神学、弁証法神学を語ったのであるが現存する「教会の宣教の危機的状況」の認識と自覚に基づいたバルトの神学の主題と方法の内容、バルトにとって、現存する「あらゆる神学の本質の解明」、換言すれば包括的に言えば「『自然神学の本質の解明であり、すなわち「『自然神学の問題を明確に提起することであり第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする立場からする「『自然神学の根本的包括的な原理的な止揚と克服にあった。第一の講演『キリスト教宣教の危急と約束』――弁証法的に「神がわれわれに<然り>と語ったからこそ、われわれは徹底的に……<否>の中に立たなければならない」。第二の講演『現代における倫理学の問題』――「われわれは神学者であるから、神について語らなければならない(当為性)」、「しかし、われわれは人間であり、その限りでは神について語ることはできない(不可能性)」、したがって「われわれは、〔神学者としての〕われわれの当為と不可能の両者を知り、まさにそのことを通して神に栄光を帰さなければならない」、神について語ることを含めて〔第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な〕われわれ人間の語りと言語は、『神の言葉』を語ることはできず、ただ神の言葉への示唆〔すなわち、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書、換言すれば「最初の直接的な第一の<しるし>」の<しるし>〕となりうるに過ぎない」(『神学の課題としての神の言葉』)。

 

 1922から23の冬学期の講義で、バルトは、「人文主義は、一貫して宗教改革の神様にかかわりをもつことを意図していると宣言するツヴィングリを取り上げた」が、「彼の神学は現在もある……衆知の近代的プロテスタント神学〔近代主義的プロテスタント主義的神学〕(包括的に言えば、「『自然』神学」)のそれであったことを知り、失望する」。また、バルトは、「宗教改革者たちの聖書理解、神理解へと導かれ」、1923年『ルターの聖餐論の出発点と意図』を書いたが、「最後にはルターに対してはカルヴァン的留保」、「確かにそうだがしかしをつけなければならなかった」。われわれは、ここで、この「カルヴァン的留保」が、神学における<思想の問題>を認識し自覚して著わされた1927年の『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』へと、そして『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』を経由させた成熟の書としての『福音と律法』へと繋がっていくことを理解することができる、さらに「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」、「教会教義学 神の言葉」へと繋がっていくことを理解することができる。バルトの「神の言葉の神学」は、「宗教的人間の歴史的=心理学的自己理解における神学のことでは全くなくて」、「あらゆる人間の自己理解を限定し、規定する優越的なものと新しいもの、これを聖書では、神、神の言葉、神の啓示、神の国、神の行為と呼んでいる」のであるが、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えずくり返し、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の網の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(その「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学)と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とする第三の形態の神の言葉であるイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くという点にある(Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)。

 さて、19228に、バルト、トゥルナイゼン、ゴーガルテンで、雑誌『時の間に』(この名はゴーガルテンの論文のタイトルで、編集主幹はゲオルク・メルツであった)の発行を決意するが、バルトは、ゴーガルテンを「非常に疑わしく見ていた」。また、「ゴーガルテンが雑誌の名を『御言葉』としようとしたとき、その名は我慢できないほど思い上がったものに思えて、むしろ『愚者の船』とでもした方がましただ」とトゥルナイゼンに語っている。バルトは、「この雑誌発行の主旨と目的について、今世紀初頭の新プロテスタント主義の積極主義的自由主義神学、あるいは自由主義的積極主義神学に対抗して、そこで聖なるものとして承認されたとかんがえられてきた人神をも、共に拒否しつつ、新しく神の言葉の神学を立てることにある」と考えた、何故ならば「聖書は、……このような神学が必要なのだと迫ってきていると思われたし、……宗教改革者たちが一つの模範として育ててきたものだと考えたからである」。

 

その雑誌発行と並行して、1923『キリスト教世界』誌において、バルトは、アドルフ・フォン・ハルナックと神学論争を行った――この論争の詳細については、ホームページ「カール・バルト(その生涯と神学の総体像)」の「カール・バルト――自由主義神学者アドルフ・フォン・ハルナックとの論争(その21および(その22を参照されたし。

 1923、「ルール紛争(ドイツのルール地方へのフランス軍による侵入と占領)が起こって、ドイツに熱狂的愛国主義が燃え上がった」。バルトは、「フランスに対してはげしい憤激と激昂を抑えることができなかった」が、同時に、「同僚教授たちのドイツ的ナショナリズム、熱狂的愛国主義に対しても憤慨しそれを拒否した」。バルトは、「ドイツ人の教授たち(知識人)は、残忍な行為を、きわめて精神的、倫理的、キリスト教的に理由づけることにかけては、まさにほんとうの達人です」、と述べている。これらの<いきさつ>は、現在も変わらない。バルトは、このルール紛争を契機に、「自分をドイツ人として感じ始めた」。また、「バルトは、Ⅰコリントの手紙の中心は、15章にあると見なした」ことに対して、「ブルトマンは反対する書評を書いた」。しかし、バルトが、「Ⅰコリントの手紙の中心は15章にあるという時」、彼は、例えば改革派の信仰告白のように、「行為によってではなく信仰によって義とされるということに強調点をおくのではなく、むしろこの義認を遂行するのは神であって人間ではないことに重点を置くことを意味していた」。このことを、バルトは、『福音と律法』および『ローマ書新解』において、次のように述べている――ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」の属格は、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」<主格的>属格(「イエス・キリスト信ずる信仰」)として理解されるべきものである、換言すれば「イエス・キリスト信ずる信仰」による「律法の成就」・「律法の完成」、「神の義、神の子の義、神自身の義」と理解されるべきものである、と。

 

 1923から24にかけての冬学期に、「かつてよく読み親しんだ改革派の神学者でもあるフリードリッヒ・シュライエルマッハーを取り上げた」。シュライエルマッハーに対するバルトの総括は、彼は、「役にも立たない後続の近代人たちだったら愚かしく、不手際で、首尾一貫しないまま、おずおずとやるようなことを、知的に、啓発的に、また堂々と行った人物」である、という点にあった。言い換えれば、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態にある」「ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する」(『ヘーゲル』)ところの、近代主義的プロテスタント主義的神学者である「シュライエルマッハーの神学は比類のない大ペテンであり人がしばしば怒りの声をあげたくなるようなものでしかない」という点にあった。シュライエルマッハ-は、人間中心主義において神の人間化あるいは人間の神化の原理を発見した「ヘーゲルの強力な痕跡」を持ったところの、まさしく「『自然』神学」の系譜に属する人物でしかなかった。また、バルトは、パウル・ティリッヒとの差異性についても、次のように述べている――両者にとって、「キリストは救済史そのものである」。しかし、「『自然』神学」の系譜に属するティリッヒにおいては、キリストは「客観的所与」として、「常に至るところに現存し、認識できる啓示の……象徴でしかない」。しかし、バルトにおいては、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>――すなわち、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」の前提条件であるところの、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」に基づいて、「神によってのみ開示され、われわれが神に知られることによってのみ知りうるような、最も特殊な出来事〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」〕なのである」。

 

 1924春、バルトは、ヘッペの書物に出会って、そこへ復古したり「逆行」するという仕方ではなく、自らの立場においてそれを包括し止揚するという仕方で、「聖書の啓示証言の中心的指標へと向かう形体と実体を同時に備えた教義学を見出した」。この時、バルトは、「教会の学の領域内にいることを知った〔すなわち、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての<教会>教義学を見出した〕」、換言すれば自然科学系と人文科学系の自由な学問、研究の場である「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」、形而上学的神学の「外」へ出ることができた。バルトは、「正統主義的でもない、スコラ的でもない」ところの、教会の一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての<教会>教義学の構成を目指す。バルトは、『教会教義学』の「第一節」で、次のように述べている――「教義学の問題は、〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身としての〕啓示において神によって語りかけられ、〔そのイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である〕聖書において預言者と使徒によって再び伝えられ、〔その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉に属する〕今日のキリスト教の説教によって語られ、聞かれる、また〔Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下からして、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に連帯し連続するという仕方で〕そうなるべきである神の言葉に対する学問的自覚である。この対象と、この自覚の必然性とその道筋についての原理的了解の試みのことを、われわれは教義学序説と呼ぶ」、と。

 

 1925夏学期の終わりに、ミュンスター大学のプロテスタント神学部から、「教義学と新約釈義の教授としての招聘の報せを受ける」。バルトは、その最初の学期に、聖霊に関わる「終末論を取り上げ」、「神の言葉を構成する啓示そのものが終末論的である」、「その対象は、復活されたキリストの再臨〔終末、「完成」――『バルトとの対話』〕である」、と述べた。「救済を信仰の中で持つことは、約束として持つことである」、「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」、「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」、「この信仰の確実性は、希望の確実性である」、「新約聖書によれば、神の恵みの賜物である『聖霊を受け』、『満たされた人』は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>において終末論的に語る」、「ここで、終末論的とは、われわれの経験と感性にとっての<いまだ>であり〔すなわち、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとって<いまだ>であり〕、〔神の側の真実としてのみある〕成就と執行、永遠的在として<すでに>ということである」(『教会教義学 神の言葉』)。このキリストの「復活と完成〔復活されたキリストの再臨、終末〕との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊としての聖霊の時代〔中間時〕である」。同じ学期にバルトは、「正規の演習をカルヴァンの『綱要』について行った」。ブッシュは、バルトがこの時期、「しばしば何週間ももっとも悪質な抑うつ症に陥って」、「スイスの田舎牧師にでもなって逃げ出したいとの思い」を懐いていたこと、「教皇もカルヴァンもシュライエルマッハーもいないところに行って、ただ<ひたすら沈黙し>ていたいと願っていた」ということを記述している。バルトは、ミュンスターでは「ローマ・カトリックの神学教授たちと交際するようになり、カトリック主義を知る」。そして、そこで得たローマ・カトリック教会に対するバルトの確信――それは、ローマ・カトリック教会においては、「『自然』神学」の段階で停滞と循環を繰り返す「根本的な誤謬を犯している場合にも、何らかの仕方で実質はわれわれの場合よりもよく保持されており、……通常行われているのとは全く異なった古典的な対話〔形而上学な対話〕となる」ということであった。ブッシュは、バルトの『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』について、次のようにだけ述べている――バルトは、第一に、シュライエルマッハーの神学を『宗教と啓示と神関係を、人間に従属する述語として理解できるように』する試みだとみなした」。第二に、フォイエルバッハの「反=神学を、『神学がすでに以前から人間学になってしまっている』という当時の神学の『隠された秘密』を、はっきりと口に出してしまった『眼の鋭いスパイ』の仕事だと理解した」、と。フォイエルバッハは、客観的な正当性と妥当性とをもって、根本的包括的に原理的に「『自然』神学」の段階で停滞と循環を繰り返しているキリスト教を、次のように批判している――「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)、「人間は自分の本質〔人間の自由な内面の無限性、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能〕を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」、この時「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」、このような訳で「(中略)神の啓示の内容は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、〔自由な〕人間的理性や〔際限なき〕人間的欲求やによって規定された神〔人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」〕から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)。

 バルトは、『ルートヴィッヒフォイルバッハ』(1927客観的な正当性と妥当性とを持ってルターの次のような教説に対して根本的包括的な原理的な批判を行った――「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を揚棄し後景へ退けたところの、あるいは認識し自覚しないところの、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としてのその人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」は、「……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)〔それには、〕あらゆることが可能であり、(中略)〔またそれは、〕人を義とする……、……〔恣意的独断的な「わがまま勝手な」〕愛と善き業を生み出す…、〔恣意的独断的に「わがまま勝手に」〕罪や死にも打ち勝ち、人を救う。〔その〕信仰と神とは『一団』をなし、信仰は(心の信頼として!)神と偽神の両方を作り、ときには(ただ「われわれ自身の内部において」だけであるが)『神性の創造者』と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を『神は人となり、人は神となる』という定式で簡明に表現し〔たが、それは、〕……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない。……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に――人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった。(中略)これらすべてのことは、……、……天と地、神と人間を顚倒する可能性を意味しており〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を揚棄することを、あるいはそのことを認識し自覚していないことを意味しており〕、終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態、無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。神に対する関係があらゆる点で、原理的に顚倒不可能な関係だということ――そのことについて〔すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>について〕、人々は、フォイエルバッハ〔の客観的な正当性と妥当性とをもった根本的包括的な原理的なキリスト教批判(宗教批判)〕を有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」、「……神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない」、「市民的啓蒙という観念、(中略)……社会民主主義の<無神性>は、教会にとって、(中略)現在でも警告であって、(中略)教会がフォイエルバッハの問いの前に晏如となることができるのは、教会の倫理が古いまた新しい実体やイデオロギーに対する崇拝から根本的に分かたれるときである。そのときにこそ人々は、教会の告げる神も幻想ではないのだという教会の言葉を信ずるであろう。そのときまでは、そのようなことを決して信じはしないのである」(『カール・バルト著作集4』「ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ」)、「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった」(『バルト自伝』)。

また、ルターの礼典論1929年の『時の間に』誌第7巻)は、「結果において、次の点においてカトリックの教理と同じになっている」。すなわち、ルターにとって、「聖餐の中の『約束ノ徴』は、『パント葡萄酒ノ中ノ』キリストご自身である。洗礼の水は、『恵みに満ちた水』であり、『神の水』であり、『神の天的な、聖なる祝福された水』なのである。そこで『信仰は水によっている』」。それに対してバルトは、<否定的に次のように述べている――私たちは、<の力の源泉を、<自体、<そのものの中に移すことをしない。(中略)信仰自体の中にあるのでもない」、「聖礼典の恵みは信仰自体にも、<自体にも帰せられない」、「カルヴァンにとっては聖礼典の恵みの源は、信仰自体にも、しるし自体にもなく、神御自身恵みの自由自由な恵みの賜物にある」、「その神の恵みの賜物が、<徴>に授与され、信仰に授与される」、「ここに、礼典論についての、よりよい全教会的解決がある」、と。

 

 1926の夏学期、演習でカンタベリーのアンセルムスの『何故、神ハ人トナリ給ウタカ』を取り上げ、「なんらかの意味で、彼の語るところは確かに正しい」、と述べている。

 バルトは、1926から27の冬学期と27の夏学期に「再び聖書釈義をテーマとする講義」を行い、「まずは(最終的な形での)『ピリピ書』の講解を行った」。彼は、「強烈な『宗教改革の』響きを、ピリピ書」の主調音として見出した。「義は……心理学の内容とはならず、いつまでも〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕神の御手の中にある」。彼にとって、「人間から見れば、信仰とは、……自分自身の能力と意欲のあらゆる試みが必ず挫折するという絶対的必然性の洞察である」――()「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり〔生来的な自然的な〕『自分の理性や力〔感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的な身体的修行等〕によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、またローマ書322、ガラテヤ書216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格は、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある「主格的属格〔「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」による「律法の成就」・「律法の完成」、「神の義、神の子の義、神自身の義」〕として理解されるべきものである」(『福音と律法』、『ローマ書新解』)、()「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<の>信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を「目的格的属格」(「イエス・キリスト<を>信じる信仰」)として理解された信仰に由って生きるのではなく〕、神の子<が>信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格「主格的属格」として理解された信仰、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある<主格的>属格として理解された「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」に由って生きるのだということである〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいるしかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではないそのことが現実であるのはただわれわれのために人として生まれわれわれのために死にわれわれのために甦り給う主イエス・キリストが彼にとってもその主でありその避け所でありその城でありその神であるということにおいてのみである」。われわれの「召命」、「和解」、「義認」、「聖化」、「救済」、そして「更新」を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエスキリストにある復活の力だけである」――このことが、「福音と律法の現実性における勝利の福音の内容」である(『福音と律法』)。

 この時期のバルトの「努力と集中」は、「主として〔第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての教会〕教義学講義の二度目の全過程を完遂するのに向けられた」。「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の問題を明確に提起した『ローマ書』と共に、その<教会>教義学は、「『近代プロテスタント主義〔包括的に言えば、「『自然』神学」〕に対する抗議』を含んでいた」、今まで「見落としてしまっていた多くのことが、今や視野に入ってきた」。それは、「古代の教義学にとって現存していた思想上の問題や次元であった」――バルトは、「『ローマ書』の時代に出発点とした神と人間の理論的・実践的隔離を放棄するのではないが〔すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を放棄するのではないが〕、単純にその地点にとどまっていることもできないという事態を〔すなわち、「単独者」と「個人救済主義」を強調するキルケゴールの言説にとどまっていることもできないという事態を(ホームページ「カール・バルト(その生涯と神学の総体像)」の「カール・バルト<言説集>」の「カール・バルトとキルケゴール」を参照されたし)〕、この二回目に学び直さねばならなかった」、「ゲッティンゲン大学の教授時代の教義学」を、包括し止揚しなければならなかった。彼は、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての教会「教義学序説を直ちに『神の言葉論』の論述の形で書いて行った」。このことは、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、彼は、「神の言葉のテーゼ」を、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(その「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉(「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の宣教の現存に置いた(Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)。したがって、バルトは、「私は〔第二の形態の神の言葉である聖書を、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準して、起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエス・キリストを理解して、〔第三の形態の神の言葉である教会に属する〕私の思考の周縁から中心へと移動させなければならなかった」、と述べた。また、バルトは、時代と現実に強いられて、「私は主体性を真理と認めることはできないので、〔「単独者」と「個人救済主義」を強調する〕キルケゴールとは、短い接触の後に……離れざるをえなかった」と述べた。そして、バルトは、「単独者」と「個人救済主義」を強調する「キルケゴールを超えて〔包括し止揚して〕」、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322,ガラテヤ216等の「イエス・キリスト<の>信仰」(すなわち、「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念と同一である――「平和に関するバルトの書簡」)そのものである「イエス・キリストを中心に置く道に立った」。バルトは、『カール・バルト教会教義学 和解論Ⅰ/1 和解論の対象と問題』で、次のように述べている――イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬすべての他の人々」、「広い共同体に向かっての運動」において、不信、非キリスト者、非知、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して「完全に開かれている」、と。また、『証人としてのキリスト者』で、次のように述べている――「われわれは、心を頑固にし福音を認めない人間や異教徒に対して、恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない。すなわち、われわれがそうした人々に呼びかけることができるのは、私がその人をその中に置くことによってではなく、イエス・キリストがすでにその人をその中に置いてい給うことによってである〔すなわち、イエス・キリストが、その人を、あの徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念と同一である)の中に置いてい給うことによってである〕。したがって、われわれは、キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」、と。

 

 1927バルトは先に詳しく述べたように宗教改革者ルターを否定的に媒介した「『自然神学との訣別としての宗教改革書ルートヴィッヒフォイルバッハを著わしている。

1927の春、バルトは、「古い、宗教改革の問題」、すなわち「信仰の業、倫理の問題を神の言葉の認識によって……解明することを主題とした、『義認と聖化』と『戒めの遵守』という講演を行った」。イエス・キリストにおける「啓示自身が啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>――すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」を持っていることからして、第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕)としての神学は、その中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の第二の存在の仕方における神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(その「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題)――換言すれば、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くことが問題である。彼は、この「認識から出発した」。「義認と聖化は、共に、〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕人間に対する〔先行する神の〕『恵みの行為』であって、それ故に義認が神の行為であって、聖化が人間の行為だというのではなく、両者は共に人間に対する神の恵みの行為なのである」、「したがって神が義認し聖化するのである」。「人は〔先行する〕神の約束〔恵み、福音〕と一緒にのみ神の戒め〔「福音を内容とする福音の形式としての律法」〕を聞くことができる」、「戒めの違反者であるわれわれは、〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、主格的属格として理解されたローマ書322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」(すなわち、「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う」――「この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けた」、この救いの答えを「全く端的に、信じ給うた」「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」による「律法の成就」・「律法の完成」、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものにより〕義認をうけた罪人としてのみ」、客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面としての」「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」・「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる「信仰においてのみ〔すなわち、信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事においてのみ〕」、「戒め〔純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請〕を遵守することができる」。純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法は、「人間に対して、罪と死の法則としての律法、汝斯く斯くなるべしという要求から、生命の御霊の法則としての律法、汝斯く斯くならんという約束へと回復せしめられる、遂行せよと求める要求から、信頼せよと求める要求へと回復せしめられる。したがって、われわれは、『生命の御霊の法則』としての律法によって「イエス・キリストにあって解放されたのであるから、われわれが己の解放を与えられるためには、彼に固着し得るだけである」(『福音と律法』)。

 1927の夏、「今のところ、われわれのもとには、真の教義学は存在しない」ことを認識し自覚していたバルトは、「独行者として、試論的教義学として、包括的な教義学〔包括的な<教会>教義学〕を目指していた」。したがって、バルトは、「試論的性格」を払拭するために、「『キリスト教教義学』の第一巻につづく巻を出さず、その後のミュンスターでの教義学講義は出版しないままになった」。

 19277月、「キリスト論において一致できないカトリックの教会論との明確な、ほとんど峻厳なまでの対決の立場をとる」バルトは、『教会の概念』と題して講演を行い、オットー・ディベリウスの『教会の世紀』について、誇張せずに言って下らない書物と評した」。彼は、カトリック神学における、「人間が神の恵みを自由にしようとする試みに対して」、根本的包括的な原理的な批判を加えている。

 192710月、バルトは、「いうまでもなく、悪しきシュライエルマッハーの息の根をとめてしまうための主題」『シュライエルマッハーからリッチュルまでの神学における神の言葉』を題目として講演した。このことについては、ホームページ「カール・バルト(その生涯と神学の総体像)」の「カール・バルト<言説集>」の「シュライエルマッハーからリッチェルに至る神学における神の言葉」を参照されたし。

 192711月、12月、バルトは、『神の啓示とキリスト教会の教理』を題目として講演し、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて「神が私のもとに到来し給うたことによって……私は、〔客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」に基づいて〕神について語らなければならないから、語ることができ、また語ってもよいのです」、と述べた。

 

 1928春、バルトは、『プロテスタント教会に対する問いとしてのローマ・カトリック主義』の題目で講演した。このことについては、ホームページ「カール・バルト(その生涯と神学の総体像)」の「カール・バルト<言説集>」の「プロテスタント教会に対する問いとしてのローマ・カトリシズム」を参照されたし。

 1928の夏学期、バルトは、聖書釈義の講義をとりやめ、「ヤコブ書講義の『改訂版』を講じた」。この時期、「バルトには『一つの』倫理学が立てられていない」という批判に答えるために、「倫理学の問題領域に集中することとなった」。バルトは、自らの立場において、「〔神学上の〕倫理学においては、教義学は神の行為を扱い、倫理学は人間とその行為を扱うという伝統的な考え方を止揚し克服した」。彼は、先行する「神の言葉の考察」――すなわち、「人間に要求する神の言葉が主題とならなければならない」、「善は、〔先行する神の言葉に〕聞くことから生じ、それ故に神の語りかけから生じる」、と述べた、何故ならばその問題の解決は、あの先に述べたような仕方での「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわち、区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題を明確に提起するところにあるからである。彼は、「特別的な神学的倫理学」を、「創造者の戒め、和解者の戒め、救済者の戒めというように三位一体論的に論じた」。何故ならば、第二の形態の神の言葉である「聖書、また」その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である「教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、啓示の認識原理である。したがって、教会の宣教の批判と訂正は、常にこの三位一体論に即して行わなければならない」からである(『教会教義学 神の言葉』)。例えば、三位一体論的に論じられた「創造者の戒め」について言えば、ホームページ「カール・バルト(その生涯と神学の総体像)」の「カール・バルト<言説集>」の「カール・バルト『教会教義学 創造論』における「神学的倫理学」を参照されたし。

 

 1928-29冬学期の演習で、「カトリック主義の問題を追及していたバルトは、トマスのテキストの講読」(『神学大全』第一巻)を行った。

19292月、「イエズス会士エーリッヒ・プシュヴァラが訪問したが、イエズス会士は、バルトとは全く異なって、「『自然』神学」の<段階>における思惟と語りにおいて、「人間の中にあり=人間を越える神と存在の類比の平和について述べた」。2月と3月に行った『神学における運命と理念』と題した講演で、バルトは、「キリスト教神学は、人間の思考の二つの基本形式である『現実主義』と『理想主義』を用いざるを得ないが、……〔自由な人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に〕神を運命の中に求め、見出すか、あるいは神を理念の中に求め、見出すかのいずれかであるということは許されない」、と述べた。「哲学は神学ノ奴婢ではなく、神学も哲学と共に、〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である〕教会の奴婢、〔起源的な第一の形態の神の言葉である〕キリストノ奴婢であろうと欲しうるだけである」。

 

 192910月、「しっかりした教育を受けた赤十字の看護婦のシャルロッテ・フォン・キルシュバウムが助手の役割を果たす、忠実な協力者として、バルトの家に……加わった」。教会の世界、神学の世界、世間の目が胡散臭く思うとしても、バルト自身の意志性にとっては、あくまでも仕事上における助手との関係性を保つことができると考えて、「彼自身はこのようにして始まった事態に対する〔下衆の勘繰りに対する〕責任と負い目を引き受けることをためらわなかった」。しかし、その男女の対関係の問題は、個体的自己としてのバルトの意志の問題とは次元が異なることからして、彼の家庭内に情念の問題、嫉妬の問題を生じさせたに違いなく、その中で一番きつい立場に立たされたのは夫人ネリであったことは確かなことであり明らかなことである。したがって、「男女間の三角関係は、実際、〔下衆の勘繰りをする〕多くの人たちに、……躓きを与えた」と言うことができる。したがってまた、人が気を配るべきことは、下衆の勘繰りをすることではなくて、ただ「バルト夫人ネリにとっては、厳しい自己放棄を強いられる結果になることは〔換言すれば、人間存在の総体性から言って、優れた人間性を持つどのような人間であれ、人間は理性的にだけ生きているだけでなく、情念の世界も、嫉妬の世界も、喜怒哀楽の世界も生きているから、精神的に非常にきついことになることは〕、誰の目にも明らかなことだった」という点にある――この点で、バルト自身はキルシュバウムを助手として「自分の家に……加わらせた」当初の自分の意志性を貫いたとしても(下衆の勘繰りの世界とは違ったところにいたとしても)、個体的自己としての自分自身の仕事上のために、夫人ネリに対して少なくとも精神的な打撃を与えたことは確かであり明らかであるから、それ故にバルトは、そのことを否むことはできないのである。したがって、おそらく、バルト自身は、そのことについてよく認識し自覚していたに違いないのである。

さて、吉本は、人間存在の総体性、人間の三つの存在様式について、次のように述べている――「人間の観念がうみだす総体の世界〔すなわち、個の世界、対の世界(・性の世界、性の共同性としての家族の世界)、共同性の世界という人間存在の三様式、人間存在の総体性〕をおさえ切るということが、それだけで人間を救済するわけではないが、それぞれ異なった次元を構成する観念の総体性をおさえることは、それをのっぺらぼうの世界〔均質な世界〕とみなすことからくるすべての錯誤から、人間を脱出させることは確かなことである。したがって、錯誤から脱出するということは、すくなくとも現在の課題としては、ほとんどすべての課題の発端である」、と述べている (『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)。例えば、老人問題は、外在的な経済的生活問題という意味からは社会的問題であり制度的・行政的問題である。しかし、それだけではなく、それは、対関係が生み出す対幻想(対観念、対意識)の共同性(家族)にあった親孝行という観念が衰退している現代家族の内在的な問題でもある。と同時に、それは、子どもと一緒に暮らしたい、孫と一緒に暮らしたい、夫婦で暮らしたい、一人で暮らしたい、畳の上で死にたいという自分の死の迎え方の問題等として百人百様の老人諸個人の内面の問題でもある(『伝統と現代 33号』「吉本隆明・鮎川信夫対談 家族とは何か」昭和505月号)。したがって、制度的・行政的解決は部分としての解決でしかないのである。したがってまた、老人問題の究極的解決のためには、人間存在の総体性を自覚的に取り扱う必要があるのである。人間存在の総体性は、「個体であり、それから〔対の世界、対の共同性としての〕家族であり、そしてまた共同体〔共同性〕の一員であるというふうに存在している」という点にある(『吉本隆明全著作集14』「個体・家族・共同性としての人間」)。第一に、自己が自己自身に関係する<個体>的個人(個体的自己)の世界がある。それは、「他人には理解できない内面を含めた、その人の心のもち方の世界である」。またそれは、「他人と通じ合うことは第二義的な個体の内面世界のことである。この内面世界は、自己意識の対自的な世界であり、自己<表出>の世界である。したがって、この世界においては、他者の意見は参考にしかならない。第二に、個体的自己が社会と関わる「<社会>的な個人としての世界がある。具体的には、仕事・納税・消費・選挙行動等において自分はどう振舞うかという世界である」――「この領域に関わる国家を含めた集団構成の問題は、集団の基本単位である三人の集団構成から類推していくことが必要な世界である」。第三に、「個体的自己が一対の男女〔性〕として振舞う世界がある」、その対の共同性である「<家族>の一員としての個人として振舞う世界がある」――「この対幻想〔・対意識〕において注意すべきことは、それは、〔人間の類が時間累積させて来た〕習俗や制度(すなわち、共同幻想、共同観念、共同意識)としての家族ではなく、個体の対幻想〔・対意識・対観念〕であるということである」。ここでの対なる世界が、バルトの三角関係の問題の世界である。すなわち、対関係は、二人の関係(この二人の関係、対なる関係が生み出す対幻想、対意識)を本質としているから、三角関係になれば、不可避的に二人の関係(対なる関係)へと収斂させていく愛憎の情念の世界の問題、嫉妬の問題が生じてくる。すなわち、外的関係は保たれていたとしても内的な関係(二人の関係、対なる関係が生み出す対幻想・対意識)においては、誰か一人が、排除されていくことになる。そのことはバルトの内面の問題であるから、バルトの場合、彼の心が、どちらに傾いていたかは知らないが、いずれにしても夫人ネリにとっては、非常にキツイ日常を強いられたに違いないのである。したがって、夫人ネリには、人間である限り、愛憎の情念の問題、嫉妬の問題が生じていたに違いないのである。私は、このバルトの体験の思想化が、『福音と律法』における、罪の本質は、キリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、生来的な自然的なわれわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も(無神性・不信仰・真実の罪)というところにあるのであって、下衆の勘繰りの対象となる「余りに性急に、余りに熱心に、念頭に置いて来た性的リビドー」(「『死んでいる』罪の成果の一部」)にあるのではない」、という言葉になってあらわれていると考える。したがって、センセーショナリズムの下で下衆の勘繰りをして、「火宅の人バルト」と「キルシュバームとの関係が日本では封印されている」と意味ありげに述べているところの、ただ単に時代が味方して世俗的なメディアの世界に登場し少しだけ名を売っただけの、それ故に全く以て<短絡的に><出鱈目に>、それがどこの大学であれたかだか人文科学系の大学院を出ただけに過ぎない「高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学が必須です。われわれは天にいる神をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。だからこそ神学が不可欠なのです。神学的な操作〔換言すれば、<前期>と<後期>の総体を生き、その<総体性>の中で思惟し語ったハイデッガー自身が「揶揄」・批判しているところの、<前期>ハイデッガーの哲学原理に依拠したブルトマンの言う非神話化〕を経ない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできないということです」と自己礼賛するキリスト教的著述家・佐藤優は、自分自身が過ちを・誤解を・誤謬を犯し得る全くのただの人間でしかないということを、また人は誰であれ人間存在の総体性を生きるということを認識し自覚していないところの、それ故にそういう自分の誤解や誤謬や曲解にメディア的な「普遍性と組織性の後光をかぶせて語る」全く以て三流の著述家としか言いようがない著述家である。しかし、バルト自身は、佐藤とは全く違って、『福音主義神学入門』で、「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』」その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり〔生来的な自然的な〕『自分の理性や力〔感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等々〕によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」と述べている。何故ならば、信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>、その中での神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられるものだからである。また、人間学的領域における文芸批評家であり思想家である吉本隆明は、次のように述べている――「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。〔したがって、〕じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます(『敗北の構造』「南島論」)、と。さらに言えば、バルト自身は、『バルト自伝』で、「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織だてるという私の仕事に生じた変化の意義を見かつ理解するためには、一九三二年と三八年に現われた私の『教会教義学』の最初の二冊〔邦訳の『教会教義学 神の言葉』Ⅰ/1、Ⅰ/2II1II2II3II4〕を、ある程度研究する必要がある」と述べているにも拘らず、「高等教育を受け」とわざわざ自分で自分を差異化(優越化)させている佐藤は、『はじめての宗教論』で、「『教会教義学』のうち「第三巻第四部(邦訳『創造論IV』全四冊)だけはぜひ読んだほうが良い」と頓珍漢なことを述べているのである。それだけでなく、佐藤は、マルクス自身が『資本論』「第1版の序文」で「私の立場は〔私の根本的包括的な原理的な立場は〕、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」(すなわち、それが<良きもの>であれ<悪しきもの>であれ、経済社会構成の拡大・高度化は、そして現存するその頂点としての資本主義は、自然史の一部である人類史の<自然史的>過程における<自然史的>必然としての<自然史的>成果であると述べているにも拘わらず、池上彰との対談『希望の資本論』で、資本主義を<偶然的な>産物と述べているのである、佐藤の思惟と語りは短絡的で出鱈目なのである、恣意的独断的なのである、この時池上自身も、その佐藤の根本的包括的な原理的な誤解・誤謬・曲解に対して、何の異議申し立ても何の批判もなしていなかったが故に、その時、これがメディア的知識人の水準なのだということを私は知っただけでなく、そのことを実感したのである)。因みに、マルクスは、前述した『資本論』に至る過程で、次のように思惟し語っている――(マルクスの「自然哲学」)自然の一部としての人間は、その個体的自己としての身体(肉体)と身体を座とする精神(意識)を介した、普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動を行うのであるが、その個体的自己としての全人間の普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動によって生み出される物質的および観念的な成果は、感覚的客体としては孤立していても、現実的な生活過程においては媒介的に他の人間と関係づけられているから、それは協働関係としての社会を構成する。ここに、人間の身体(肉体)および身体を座とする精神(意識)を介した類的な活動や生活がある。それは、人間の歴史的行為である、それ故に<経済学的な>「疎外された労働」における<疎外>概念は、この「<自然>哲学」における<疎外>概念から外化(疎外)されて来るところの<疎外>概念である、詳しく言えばそれは人間と自然との相互規定的な対象的活動における「<自然>哲学」における<疎外>概念(人間諸個人による全自然の非有機的身体化と反作用としての人間の有機的自然化、自然の人間化と人間の自然化)、すなわち<経済学的な>「疎外された労働」における<疎外>概念は、直接的な<経済学的な>「疎外された労働」における<疎外>概念ではないところの、「<自然>哲学」における<疎外>概念から外化(疎外)されて来るところの、まさに<経済学的な>「疎外された労働」におけるそれである(『経済学・哲学草稿』)、さてその人間の類の時間性としての「歴史とは個々の世代〔すなわち、個体的自己の成果の世代的総和〕の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた〔経済的カテゴリーの〕材料、資本、生産力〔また、性・対(性・対の共同性としての家族)、言語〕を利用する〔ヘーゲル的に言えば媒介する、キルケゴール的に言えば反復する〕」(『ドイツ・イデオロギー』)。

 さて、1920年代末の状況――1929、空軍大尉ヘルマン・ゲーリンクが「大学の神聖な講堂で歓迎を受け、……二時間に及ぶ熱弁をふるった」。バルトが「神学者として所属していたドイツ福音主義教会」は、「人間の尊大な自己意識」が管理するプログラムに基づいて「明瞭に反動〔ナショナリズム〕へと傾斜していった」。バルトは、『時の間に』誌の「グループの一員に数えられていた、『自然』神学の可能性を改めて考慮に入れようというエミール・ブルンナーの要求を拒絶した」。<バルトの自省>――彼は、『キリスト教教義学試論』の周知の誤った出発」を自省すると共に、『教会と文化』や『教義学序説』にも『自然』神学の痕跡・名残りがあることを自省した。エミール・ブルンナーの思惟と語りや『自然』神学については、Jimdofreeのホームページ「カール・バルト――その生涯と神学を<トータルに>把握するための<研究>」の「8.「『自然』神学」に対するカール・バルトの「『<非>自然』な神学」について(その3)」を参照されたし。

 

『時の間に』誌の「屋台骨がきしみ始めていた」1930への移行期において、バルトは、「すでに弁証法神学の代表者たちのグループ内には、根本にまで達する対決と分裂が現われてきた」ということを認識し自覚した。

1930、バルトは、『聖霊とキリスト教生活』を出版した。この『聖霊とキリスト教生活』については、ホームページ「カール・バルト(その生涯と神学の総体像)」の「カール・バルト<言説集>」の「聖霊とキリスト教生活」――<(1)創造者としての聖霊>「聖霊とキリスト教生活」――<(2)和解者としての聖霊>「聖霊とキリスト教生活」――<(3)救済者としての聖霊>を参照されたし。

 

 バルトは、自省的に「当時私が根本的に間違っていたのは、すでに台頭し始めていた〔現存する自由主義国家も社会主義国家も、どのような国家も、現実的な社会をではなく、観念の共同性を本質とする国家を第一義性・価値性とする<国家主義>的なそれであるが、その国家主義における〕国家社会主義が、その理念や方法、その指導者の人物たちは私には当初から不条理なものに思われていたにもかかわらず、やがて危険なものになるとは見抜けなかったことである」と述べている。戦後の1948年、バルトは、次のように書いた――「六〇〇万人のユダヤ人が殺され……ありとあらゆる恐怖と困窮が人間を襲い、しかもすべてはちょうど風が……花の上を吹くように来て、また去って行った。……草や花はしばらく身を曲げる。しかし風が静まれば、また身を起こす。……ある近代劇が〔それが自由主義国家のそれであれ社会主義国家のそれであれ、どのような国家のそれであれ、現実的な社会をではなく、観念の共同性を本質とする国家を第一義性・価値性とする<国家主義>におけるそれや、その中で現存する近代主義的な教会の宣教および神学におけるそれも〕、『私たちはまた逃げおおせた』という言葉でこれを言い直しているように」(『バルト神学入門』)、また第二次世界大戦後においても「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった一九三三年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」、「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心を見出した」、「私は、前よりももっと明瞭に人間――キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」(『バルト自伝』)。

(文責:豊田忠義)